The Garden of Eden

海からからさほど遠くないところに、アメリカ映画に出てくる墓場の門構えに似た場所がありました。

その大きな門には、今にも朽ち果てそうな一枚板がぶら下がっていてそこに続く3メートルほど離れた道の両脇に、四角い箱が中途半端な高さで立っていました。

大きな門の横から続く塀の向こうには塔のような物が見えて、たまに大きな機械音や何かの叫び声が聞こえてきて、不気味な雰囲気のため、周囲に人を寄り付かせませんでした。



記憶

私が小学5年の夏休みに、親に黙って自転車に乗りクラスの友達と、およそ30km離れた海に遊びに行った時の事でした。

最初は砂浜で友達と二人で遊んでいたのですが、岩場の方で子供達の楽しそうな声が聞こえてきたので、友人と行ってみると、地元の子供達がカニ獲りをしていて、中には自分の手のひらよりも大きなカニを獲っているのを見て、自分達もカニ獲りをまねしているうちに、同年代の子供達と仲良くなり、ここから少し離れたところにある、ある有名な噂話しを教えてくれたのでした。

とても面白そうな話しだったので行きたくなったのですが、怖さもあって自分から行きたいと言えずにいると、話しが盛り上がって行く事になったのでしたが、私達は一応、家から遠くなることもあったので、相談して付いて行くことにしました。

その場所は海沿いの道を自転車で20分ほど走り、川の手前を曲がって、坂道を30分ぐらい登ったところにありました。



そこは、真夏の昼間だというのに薄暗く肌寒い風が吹き抜け、人のけはいが全く感じられず、薄気味悪い場所で、地元の子の話しでは、そこには昔から老夫婦が住んでいて何か悪戯をして見つかると中に連れ込まれて、家畜の餌にされるという噂話しがあり、どうにかして中を覗けないか壁の上に登ろうとしたり、壁の割れ目から必死に中を覗いていました。

私達は最初は小さな声だったのですが、段々と大声になって騒いでいると、突然中から金属が擦れるような大きな音が聞こえてきたのでした。



それは怪物の叫び声のようにも聞こえて、それと同時に今までの私達の騒ぎが一瞬で静かになり、全員が互いの顔を見合って止まったのでした。

そして一人の子が走り出すと、みんな蜘蛛の子を散らすように猛然と走りだしたのでした。

私と友人は一緒に走り出して自転車に跨り、必死にペダルを漕いでいました、そのうち涙がこぼれてきて必死に家の方向に走っていたのでした。

少しづつ日が傾いて暗くなって行く中、私達は疲れ果て、ほとんど話しもせずに自転車を漕いで、家の近くなると二人とも泣き出していました。

家に着くと既に辺りは真っ暗で、家の前で母親が心配そうに待っていました。

当然その後、親に怒られ、その日の夕飯は食べさせてもらえませんでした。



ただ、その記憶も夏休みの終わりと共に消えていったのでした。



スーパーセヴン

高校時代は、駅まで原付で通学をしていました。

ある寒い冬の日の夕方、駅の駐輪場から原付を出していると、凄い低音と共に1台の屋根もドアも無い車が、黄色い鼻を地面に擦り付けるようにして、私の前を通り過ぎてタバコの自動販売機の前で止まりました。

そして暖かそうな革のジャンパーを着た人が運転席から降りてきて販売機でタバコを買うと、早速、運転席に戻ってタバコを吸い始めました、タバコを吸い終わると、その人はそのまま地面で揉み消したのでした。

車に乗ったまま地面に手が届いてしまうなんて、なんて低い車なのだろうと走り去るまで見入ってしまいました。

すぐに何と言う車なのか知りたくなって図書館に行ったのでした。車の名前と少し歴史がわかったのでしたが、その頃は調べても見た時のイメージが頭の中に残っただけで、その記憶は時間と共に薄れてしまったのでした。



それから20年が経ちインターネットで、ある程度の事ならば、すぐに調べられるようになり、気に入った画像はとっておく事が出来るようになって、ある日たまたま目にしたページで、あの時に見たスーパーセヴンと言う車と再会したのでした。

当時、F1に興味に興味があり、太いスリックタイヤで複雑なコースを走る姿が非常に好きで、それが講じてイギリスやイタリアの車に憧れを抱くようになっていったのでした。

その中でも常にスーパーセヴンには、時代を越えた何かを感じ、どんどん憧れが強くなって行ったのでした。

そしていつの間にか、興味のある車の情報を集めていたスクラップブックが、スーパーセヴンだけで3冊になるころには、いつか所有したい車になっていました。

ただ、購入計画をどう立てても、まずガレージが必要で、それからスーパーセヴンだったので、一般的なサラリーマンの収入では、遠い遠い夢しかなかったのでした。

それでも私は、いつもネットでスーパーセヴンをいつも検索し続けていました。すると、スーパーセヴンの情報で有名な掲示板に、ある高速道路のパーキングエリアにスーパーセヴンが集まるという書き込みを見つけたのでした。

そのパーキングは、それほど遠く無く、集まる日まで迷っていましたが、実物をもう一度見たいという衝動にかられて、デジカメ片手にセヴンを見に行く事にしたのでした。

当日は少し遅れて着いたのですが、パーキングの一角は、数台のスーパーセヴンがいて、私が学生時代に見た物と全く変わっておらず、車高が低いためにその一角に車がいるのですが、そこだけ見晴らしが良く不思議な感じでした、基本的に同じセヴンなのですが、良く見ると一台一台オーナーの拘りで、改造がされていました。

セヴンのオーナー達のほとんどは、セヴン談義に夢中になっていて、私は興奮状態でお気に入りをカメラ収めていると、一人のオーナーが話しかけてくれたのでした。『こういうセヴンも良いけどサーキットを走ってる姿はもっといいよ、今度レースがあるから良かったら見にくれば?』と誘ってくれたのでした。

私はその人と自己紹介をしあって連絡先を交換したのでした。

正直その時は、あまり行く気はなかったのですが、数日後に丁寧な連絡をもらい断わる理由も見つからなかったので、行くことにしたのでした。



当日は、とても天気が良く高速道路を使って2時間程で着いたサーキットは、どこか懐かしい匂いと音がしました。

バイクに乗っていた時を思い出して、気分が少しずつ高揚していました。

その日はとても暑い日で、アスファルトの照り返しもあってサーキット内の風は太陽が昇るにつれて熱風となり、かいた汗がすぐに乾いてしまいTシャツに塩の染みが出来ていました。

約束の待ち合わせ場所には、既に丸山さん(誘ってくれた人)がいてくれて、すぐにパドック内を案内してくれて、そこには様々な車が居て、まるで昔のサーキットに来ているようで、私が小さかった頃を思い出していました。

そして最後に丸山さんのパドックに行ったのですが、そこには、これから走り出そうとしている真っ白なスーパーセヴンがいました。

私はそのセヴンに目を奪われ、なんだかよくわからない衝撃が私の体の中を通り抜けて行ったような感じがして、その後もそのセヴンが目の前を走りぬけるたびに、同じような感覚があったのでした。

走行が終わって、パドックに戻ってきた、あの白いスーパーセヴンを前に、自分でも押さえきれない何かが丸山さんの前で言ってしまったのでした。

『万が一手放そうなんて思った時は連絡をください!! 』と・・・・・、言ってしまいました。

“なんて事を言ってしまったのだ”と後悔したのですが、丸山さんもそんな嫌な感じでは無かったような気がしました。

その日は、後の事は良く覚えていません。何かのぼせ上がったような感じで、家にたどり着いた時には、暑さのせいもあったのだと思いますが、ぐったりしていたのでした。



それからは募る思いが日に日に強くなって行き、少しずつでも近づくようにと行動を起こして行きました。

まず、最初の目標になっていた、屋根付きの車庫は予算を立てて、格安のガレージを購入して自分で約1年掛かりで建てました。

そしてその中に入れる工具を少しずつ集めていきました。でも、セヴンを購入する環境が出来上がる頃には、金銭的には、底を付いていました。

でも、夢見ていればいつか手に入れる事が出来ると思い続け、資金調達のために、所有しているバイクを売り少しづつでもお金を貯めて、何とか手に入れることが出来ないかと、小遣いも細かく管理していました。

でも、現実は厳しく私の考えているセヴンは、丸山さんのセヴンで、あのセヴンを調べれば調べるほど使われているパーツのほとんどが特注品で、同じセヴンを作るには、莫大な金額になってしまい、夢を見続けても叶わないのかと思い始めていました。



ただ、丸山さんとは時々メールのやり取りはしていて、あの暑かったサーキットの日から2年が経ち、新年を迎えた日に、突然、丸山さんから電話がかかってきたのでした。

とりあえず、お正月の挨拶を済ませて、丸山さんの言ってきた内容は、私の知り合いで車を組み立てる事の出来る人はいないか?でした。

私は丸山さんが、何を言っているのか全く理解できず、たぶん何度か聞き直したと思います。

返事だけはして、丸山さんの言っていたことを何度も思い出していたのですが、内容はエンジンとミッション無しで、あの白いスーパーセヴンを私に譲ってくれる!!ということなのでした。



私はその後の事はあまり覚えていません、体が浮いているような感じがして・・・・翌日の朝には家から100km離れた丸山さんのガレージに居て、あの白いセヴンに白い息を吐きながら座っていました。

ずっとこのセヴンを思っていたこと、今はお金の目処は全く立っていない事を説明した上で、このセヴンをいくらで譲ってくれるのか、合格発表を待つ受験生ような気分で、丸山さんの金額提示を待ちました。

なんと丸山さんからは、今出せる金額でいいと言われたのでした。でも今時点で言える金額はバイクを売って、その他お金になるであろう物を売った想像の金額にプラスαした金額を丸山さんに伝えたのでしたが、丸山さんも金額の少なさに迷っているのでしょうか、ただ私にとって、このチャンスを逃したら一生セヴンに乗ることが出来ないと思っていました。

すると丸山さんは私の提示した金額でいいと、快く返事をくれたのでした。

また、血圧がおかしいような体が浮いているような感じになっていました。

その後も浮いているような感じは続いていましたが、私は丸山さんからこのセヴンを動かすために必要な部品のことをメモしていました。



私は帰ってすぐにお金集めに走り回って、1週間後には半額を振り込んで、2月には整備士の友達と積載車を用意して、エンジン、ミッション無しスーパーセヴンを引き取りにいったのでした。

まだ走る事は出来ないセヴンでしたが、友達の整備工場に納まった姿は、たまらなく美しい絵のようでした。

私は、このセヴンを見ているだけで目頭が熱くなっていました。

早速、現状を確認して今までの集めた資料を基メージを作り上げ、それに必要な部品をパソコンに入力しました。

そして必要な部品を友人と相談しながら予算を20万円と決めて、中古部品を中心に部品を集めていったのです。



それからは、少しずつ集まった部品を試行錯誤しながら少しずつ組み上げて、オークションで入手した格安のミッションとエンジンをフレームに載せてほぼ完成に近づくと、エンジンの初火入れなど楽しみながら作業を進めて、約4ヶ月で走り出せるところまで出来上がったのでした。

その後、陸運事務所でナンバーを取得し納車となったのですが、ずっと夢のまた夢だと思っていたスーパーセヴンが、今自分のガレージに居てもまだ夢を見ているようで、42歳という歳にまた青春が来たような胸がキュンとする思いを何度もさせてくれたのでした。



丸山さんからの最後のアドバイスには、『近くに仲間を作ってスーパーセヴンのクラブに所属する事』でした。

この車はその辺の修理工場より同じセヴンに乗っている人の方が何倍も助けになるからだそうです。

ただ、バイクに乗っていた時からだったのですが、複数台で走って他の人のペースに合わせた事で事故を起こしてしまったのを何度も見ていたので、一人で走る方が楽だったのと、自分で組み上げた自信から、いつかはどこかのクラブに所属するかな?ぐらいで考えていました。



ところが、走りはじめて2ヶ月ほど経った時、いつも試走に使っている、家から少し離れた人気の無い山道でエンジンが吹け上がって止まってしまったのでした。

一度落ち着いて、セルモーターも燃料ポンプも動くことが分かり、後は点火系かガソリンだと考えた時、前回ガソリンを入れたのは何時だったか?と、真ん中を示している燃料計を指で“コッ”と弾くと、針はストンと“E”の文字を示しました。“エッ”とすぐにガソリンタンクを覗いてみたところ、ガソリンはタンクの底にうっすらあるだけでした。走った距離を全く考えていませんでした。

私は少しその場に座り考えをまとめました。セヴンを押して行く事も考えたのですが、この先の登り坂は押せるはずは無く、セヴンをおいてガソリンを買いに行く準備をし始めました。



5リットルのガソリン携行缶を用意してセヴンにトノカバーをかけていると、遠くからエンジン音が聴こえ始めたのです、運良くこちらに向かって来てくれています。

これは絶対止まってもらって、ガソリンを分けてもらうか、ガソリンスタンドまで乗せていってもらえないかを頼もうと、音のする方を見ていると、徐々にこちらに近づいて来ました。

その音はとても軽快なエンジン音で大型バイクか相当弄ってある車ではないかとじっと目を凝らして見ていると、見えてきたのは、スーパーセヴンだったのです。

それも凄いスピードで1台、2台では無く5台ものスーパーセヴンがこちらに向かってきたのでした。

普段でもほとんど見かけることの無いスーパーセヴンが5台も列を成して来たため、私は少し見入ってしまい、止まってもらう合図を出すのが遅れてしまいました。

近づいて来たセヴンたちに慌てて両手を振って止まってくれるように合図を送ったのでしたが、相手をビックリさせてしまったのは、当然で、止まってもらえたのですがタイヤから白煙を噴き上げていました。

私は、あまりの凄さに圧倒されてしまい、一瞬彼らに話すことが出来ないでいると先頭を走っていた一人に、『どうしたんだ?』と聞かれて、慌ててガス欠で動けないことを伝えたのでした。

すぐに何人かが自分の車を降りて、私の車を見てくれてガソリンを快く分けてくれたのですが、最初に声をかけてくれた人が凄く強面で無言状態が続いてしまい、この空気をどうにかしようと、必死になっていると、向こうも同じ気持ちだったのか、とてもぎこちなくでしたが喋る事が出来たのでした。

『いつも別の山坂道を走っていて、今日は初めてここに来た』と、私は『セヴンに乗り出して間もなく』とか、たいした会話も出来ずにいたところで、ガソリンが入れ終わり、お金を払おうとしたところお互い様だからと受け取らずに、『次ぎあった時は一緒に走ろう』と言われ、私は本当に助かった事のお礼を言うと、5人がそれぞれのセヴンに乗り込み、走り去る時に強面の人が手で合図をし、他のセヴンはクラクションを鳴らして去って行きました。

私はそのセヴン1台1台を見て、普通のセヴンよりもさらに走るために不要な物を外して、軽量化していたことと、ロールケージに同じロゴが貼ってあったのを見逃しませんでした。





仲間

休みの日は、いつも走りに行っていましたが、渋滞にはまるとバイクより辛いため午前中には帰ってくるようにしていました。

明日は天気も良さそうなので、学生時代にバイクで走り回ったところまで、行こうか考えていました。

ただ、行くなら早朝しかないと思っていました。



前日は考えただけで走るかを決めずに寝てしまったのでしたが、まだ暗い中目が覚めたので、そのまま身支度をしてガレージに向かいました。

ガレージの明かりをつけると蛍光灯の光に静かに浮び上がったセヴンがいました。ヘッドライトからボンネットとスカットルまで指を滑らせてから、ボンネットを外してバッテリーを繋ぎ、シートに座ってカットオフスイッチをオンに回して、イグニッションスィッチをオンにすると燃料ポンプが音を立てて動き、キャブに一定のガソリンが満たされて燃料ポンプの音が静かになるのを確認し、勢い良く点火させるためにアクセルを深めに踏み込んで加速ポンプを動かしキャブレターからシリンダーにガソリンを多めに流し込んでやり、その後セルモーターを回して一気にエンジンを目覚めさせます。

エンジンが掛かってもアイドリングが落ち着き、水温が一定の温度になるまで待って、走り出すのですが、新しい車には無いこのような儀式が必要なのです、これもセヴンの味です。



エンジンが温まるまでこのままの状態なので、一度セヴンを降りてボンネットを付けて、再度セヴンに乗り込み、暗い道用のオレンジ色のサングラスをかけて、ハーネスを締めこんでからガレージを後にしました。

朝日で空が少し青くなり始めた頃、いつも寄る高速道路の小さなサービスエリアに入り、缶コーヒーとサンドウィッチを買ってセヴンの横で食べていました。



すると、聞き覚えのある音が遠くから聞こえてきました。

走行車線に目をやると、あの時のセヴンが、勢い良く1台また1台と通り過ぎ、あの時と同じ5台が通り過ぎていきました。

私は、急いでサンドウィッチを口に突っ込み、セヴンに飛び乗って追いかけたのですが、全く追いつくことが出来ませんでした。



私はそのまま今日の目的地を目指して、厚木ICを出て小田原方面に向かい、箱根新道で箱根に向かいました。箱根新道では、ある程度のスピードを出して、自分流のブレーキやサスペンションの調子を確かめながら代官山パーキングに着いたのは7時頃で、まだバイクと車が数台かいるだけでした。

今日の天気だと富士山も良く見えるので、昼には箱根の道が車でいっぱいになって、つまらない渋滞に巻き込まれることが予想できたので、予定通り午前中には帰ることにしました。

私はセヴンの横で一服しながら、昔走った椿ラインの事を思い出していたところ、またあの音が聞こえ始めたのです、それもだんだんと近づいてきて、音のする方を見ていると、パーキングに入ってきたのでした。

そして先頭の1台が私を見つけ、私のセヴンの横に5台そろってセヴンを止めたのでした。

この前、世話になった上、たいした会話も出来なかったので、今回は私として限界に近いほど気を使って会話をしに行きました。

他人の事を言えた義理ではありませんが、相当第一印象が悪かったのですが、喋ってみると徐々に会話が弾んできて、みんな感じの良い人たちということがわかり、色々な話しの中で、職業の話しになり、サラリーマン、社長、鳶の親方と様々で、みんなそれなりに人生をおくってきた人たちばかりで、生活にも精神的にも一段落したところでセヴンを手に入れたようでした。

まぁ当然ですが、その後はセヴン談義となり、ボンネットを1台1台と外していきました。

そして驚いたのが、見た目ほとんど同じセヴンなのですが、載っているエンジンが5台、私を入れて6台、全て違っていたのでした。

KENT、K1.8、K1.6、BDR、そして一番驚いたのが、1100ccのバイクのエンジンだったのです。

今でもバイクが好きな私にとっては、一瞬で虜になっていました。

ただ、良く話しを聞いてみると私のセヴンを作るのに時間がかかったと思っていましたが、そんな時間など微々たる物で、普通に乗ることが出来るようなるまで、年単位の時間と相当なお金をかけたそうです。



そして私は、今まで他のセヴンと一緒に走ったことが無いことを言うと、すぐにこの先にある椿ラインを一緒に走ろうと言う事になりました。私はこの時、他の人の走り方を参考にしたかったので、みんなで走るつもりで言ったのでしたが、話していくうちに『万が一を考えて』とか言う話しになり、1台ずつ私が後に付いて走る事になったのでした。

まぁ他の人の走り方は、見られるのだからいいのですが、一抹の不安もありました。



で、1台目がK1.8です、これはKレーシングと言われるモデルで225psのエンジンに6速ミッションを積んでいるスーパーカーで、性能的に見て私のセヴンとは比較になりません。

ただ、『人の走り方を見たい』ということをお願いしたので、軽く流してくれると思っていましたが・・・・・・そんな考えは甘かったのでした。

走り出してすぐに、見えなくなり、私はKレーシングのエンジン音がこだましているのを聞きながら走りました。



次はKENTです、SSというモデルで、このセヴンなら馬力も車重も勝っているので、付いていく自信がありました。

でも、走り出してすぐにそんな自信も簡単に砕かれました、やはりながしてくれません。

私が3つ目のコーナーを曲がった時にはもう見えなくなっていました。ただ、ここで走り方の違いが少しわかったのです、ブレーキをかける位置がもっとコーナーの奥で、かけている時間が短いのです。これで次は何とかなるはずです。



3番目K1.6これは、カタログ上、車重、馬力がほぼ一緒なので、多分ライン取りブレーキング、ハンドリングを真似れば何とかなるのかと思っていますが、多分駄目でしょう。

でも、必死になって、3つ目のコーナーまで付いていけたので、これで最後までと思った瞬間、同じスピードでコーナーに突っ込んでいったはずが、私のセヴンのフロントタイヤがロックし白煙を出して止まったのでした。

相手のセヴンも同じスピードだったはずなので、タイヤのせいか?とも考えましたが、今の私に原因を見つけることは出来ませんでした。

一体何が駄目だったのでしょう、タイヤ、サス、ブレーキなど疑うところはあったのですが、なぜか一緒に走っていたセヴンの走りは、ギリギリに攻めている感じではなかったのです。

しかも、後で参考にと見せられたのは、私が必死で走っている姿を走りながら撮影していたのでした。

結局お願いした目的を果たしてもらうことはほとんどできずに、なぜかここで、とどめを刺されたのでした。

私はすぐに『走り方を教えてください』と頭を下げました。

すると一人が『来月の第2土曜、夜9時にここに来れば』とタバコの銀紙の裏に住所を書き込んでくれたのでした。

私はそれを手に取り、1台1台クラクションを鳴らして去って行くセヴン達に、魂を抜かれてしまったように手を振っていました。

少しの間、一人で呆然とセヴンの前に立ちつくしていました、一応、何かおかしなところが無いかを見て回り、なんか腑に落ちない気分のまま家路についたのでした。

帰り道は、なぜか予想していたよりもスムーズに帰ってこられました。

ただ、予定では午前中で帰ってくるはずが、ガレージに着いて時計を見ると午後4時を過ぎていました。

充実していたといえば充実した1日でした。私は疲れきってセヴンの横で座りこみジーンズのポケットから受け取った銀紙を取り出し、書いてある住所を見ると埼玉県でした。

だいたいここから80kmぐらい離れた大きなサッカー場の近くでした。



第2土曜日の事は悩んでいました。

多分、走り方を教えてくれるはずなのでしょうが、とても団体行動が苦手な私は、紙に書いてある住所だけでどんな人が何人いるのか分からずに行くのは、全く気が進みませんでした。

唯一の情報の住所をネットで検索しても畑になっているだけで、余計に悩んでいました。

とうとう当日になってしまいました、こちらから『走り方を教えてください』と言って、教えてくれた情報なので“行かないのは失礼だ”と、自分に言い聞かせました。

再度ネットで2時間あれば着く事を確認し、9時ということだったので、余裕をみて6時30分に家を出ましました。

高速道路は渋滞も無く書かれた住所の近くのインターチェンジを出ると、そこは片側3車線が続く広くてとても新しい道でした。だた周りは真っ暗でした。

20分ほど走ったところで、ネットの地図にあったコンビニを見つけ、時間にも余裕があったのでとりあえず入る事にしました。

セヴンを降りて見回したところ、紙に書かれた住所らしき場所には倉庫があり、明かりが点いているのが見えました。

セヴンをコンビニの影に移動し様子を見ていると、甲高いツインカムエンジンの音が近づいて倉庫の前で止まり、車を降りた人が倉庫の中に入って行きました。

倉庫の扉から漏れた明かりで、古いアルファロメオであることがわかりました。

それから続々と35GTRや古いポルシェ911とカレラ4、実物は初めてのロータスエクラ、ジネッタ、スーパーセヴンも何台か止まりました。

そうしているうちに時間の5分前になったので、トイレに行きたいのを我慢してセヴンのエンジンをかけて倉庫の方にゆっくりと走り出しました。

倉庫の前でエンジンを止める時は煽らずにそっと止めて、深呼吸をして『よっこらしょ』とセヴンから降りようとした時、突然倉庫の大きなシャッターが開き中から10人ぐらいの人が出てきてきました。

そして、私と私のセヴンを取り囲み、サイドブレーキ代わりに入れたギアを抜き去り、私をセヴンに乗せたまま倉庫の中に入れたのでした。

最初、倉庫の中は明るくて何も見えず何がどうなっているのか判らない状態でしたが、目が慣れると周りには、足回りがばらされたセヴン、エンジンが下ろされたセヴン、フレームを補強しているセヴン、その他にセヴンのフレームがいくつか重なって置いてあり、他にもエンジンや部品が多く置いてあり、セヴン以外ではロータスヨーロッパ、ジネッタG4、G12・・・・ここは一体何なのか、呆気にとられていると、まわりにいた人たちがみんな笑っていました。

そして目の前には、あのロゴが大きく貼られていて、この前の鳶の親方が『セヴンス・ヘヴンにようこそ』と、言ってくれたのでした。

そう、ここはSEVENTH HEAVEN(ユダヤ教において絶対神がいる至高の天国を表す)と言うクラブのクラブハウスだったのです。

私は突然の拍手に迎えられ、セヴンに乗ったまま自己紹介をしていました。

そして何度か会っている鳶の親方がクラブの会長ということも知りました。

一通りこのクラブの話しを聞いた後に、入会の確認をされて『よろしくお願いします』と言ったとたん、今度は私のセヴンがジャッキアップされました。

何をされるのか聞くと、『このクラブの最初の儀式みたいな物だよ』と言われてボンネットが外され、タイヤが外されました。

そして、寄って集って部品を外し出し、挙句の果てには調整したり、倉庫にある部品に交換したり、もちろんキャブもばらされてジェット交換までやって、元の状態に戻ってジャッキから降ろされた時は倉庫の窓が青くなっていました。

周りを見ると、寝袋でいびきをかいている人、まだ考えている人、コンビニ弁当を食べている人、とにかく私のセヴンは、一通り弄くりまわされた最後に会長が例のロゴのステッカーをロールケージに貼ったのでした。

すっかり日が登り始めたころ一人一人と帰り始め、私も挨拶をして同じ方面の人と帰る事にして、挨拶をしていると書記を担当している人から今後のツーリングと走行会、毎月第2土曜夜9時のミーティング(夜ミ)の予定表を渡されて、倉庫を後にしました。

あれだけ弄られたので、解ってはいたのですが走り出してすぐに感じが違うことがわかりました。

というか他の人のセヴンを間違えて乗ってきたのかな?と思うぐらいエキゾースト音、ハンドリング、エンジンのレスポンス、ブレーキのタッチ、クラッチの繋がり方が変わっていたのです。

なので、眠いはずの帰り道が、色んな走り方をして楽しく帰ることが出来ました。

セヴンはもっともっと走りたがっているようでした。

家に着いて私は、ガレージのセヴンを見て、昨日の夜からの事を一つ一つ思い出していました。

そして、ロールケージの貼られたステッカーを見て私はセヴンと一緒に、にやけていました。

後で知るのですが、この仲間達のせいで私の人生が大きく変わる第一歩でもあったのでした。





記憶

初参加の夜ミで渡された予定表にはツーリングの予定が書かれていたのですが、最初から参加は、まだ、あのTBKラインの事に拘っていたことと団体行動が苦手なため、行けば楽しい事がわかっていたのですが行く気になれず、ツーリングの誘いを2度、適当な理由で断ってしまいました。

そして3度目のツーリングの誘いを受け、このツーリングだけは、行き先がエデン?と書いてあるだけで何県に行くのかも書いていなかったのです。

そして断わる理由も無かったので、初めて参加する事にしました。

ただ、誰に聞いても行き先のことは教えてくれず、集合場所が海老名PA6時、行った先で1泊する人は寝袋持参とのことだけ。

他の人に聞くと用事が無い人はみんな1泊するようでしたし1泊しないとこのツーリングは楽しく無いとまで言われたので、私も一応寝袋を持って参加することにしたのでした。

待ちに待ったツーリングゥ~です!!テンションは相変わらず時間が近づくにつれて下がっていました。

でも、気持ちに鞭打ってカバンと寝袋をセヴンの助手席に突っ込んで出発しました。

家から海老名まで軽く流して30分なので5時半に家を出て、気持ち回転を上げ気味に走り、6時前に海老名PAに着きました。

集合場所はPAの入り口の近くということだったのですが、フェラーリ軍団が陣取っていたので、ちょっと探しましたが、心配する必要も無くすぐに見つかりました。

既に10台弱セヴンがいて、私の後からも5~6台来たので、予定の時間には15台の大所帯になりました。

とりあえず全員集まったところで、挨拶をしてから1列になって出発したのですが、凄いです私は列の真ん中ぐらいを走っていたのですが、前も後ろも全部セヴン、こんなにたくさんのセヴンが一列で走っているのは壮観です。

ただ、そんなことを思っているのもつかの間、いきなり加速し始め速度はゆうに170km/hを超えています。

こんなペースで何処まで走るのかわからず、ヘルメット被れば良かったと後悔しました。親方とその他2名は被っています・・・・・・。

そのまま速度は緩めずに走っていると御殿場IC近くでやっと減速し出して、左ウインカーを点けたのでした。

この時点で170km/h以上での巡航は、限界でした、風圧で顔が痺れています。

インターチェンジを降りるとすぐに路肩に停車したので、どうしたのかと聞くと高速を使わずに、ここから合流するセヴンがいるそうです。“タフです”

そしてここから何処に行くのかを聞いたところ、『まずは富士山1周』という答えでした。

やっと教えてくれたのが富士山1周、それも『まずは』って、高校時代の朝練のようです。

でもこうなったら何処までも行くぞって感じでした。

一応ここまでは・・・・・・。

富士山を見ながらのワインディングはとても気持ちが良く気に入りました。そしてちょっと早い昼食は途中のドライブインで富士宮焼きそばを食べました。

お腹も走りも落ち着き、気持ちのいい眠気が来たのでした。

ここで終わって高速を使って帰れば、私の体力的に調度良いツーリングなのですが、今いる場所は、朝、高速道路を降りた御殿場でした。

そして、ここから芦ノ湖方面に行くそうです。若干・・・・・・・色んな所が悲鳴をあげています。“この人達は一体どんな体力なのだろう”と思っていると、また少しずつペースをあげて走り出していました。

芦ノ湖では、ただ出さえ目立つ車が20台近くも居れば、大人も子供も足を止めて見ます、手を振ってくる人もいます。

そんな中で一番強面の会長がニコニコしながら、手を振っているのを見て、吹き出しそうになりながら私も手を振ったのでした。

そのまま芦ノ湖を静かに半周し、芦ノ湖スカイラインに入り、ワインディングを気持ち良く流し、途中有名なパーキングのあるコーナーにセヴンを並べて止めて、写真を撮り、喋る人、走る人に分かれて1時間ほど居たでしょうか、そこから箱根方面に向かうそうなのです。

箱根は始めてSEVENTH HEAVENのメンバーと一緒に走った、忘れる事の出来ない場所です。

走り出してまもなく着いた場所は、やはり大観山パーキングでした。ここではトイレ休憩程度で出発する事になったのですが、行き先は湯河原、と言う事は椿ラインを通る事になるのです。

ただ、行き先が湯河原と言えば温泉街なので寝袋は必要ないのです、また疑問が沸いてきたのでしたが、黙ってついていく事にしました。

案の定、椿ラインでは激走です、私はあの日以来ここは走っていなかった為、気を付けながら走る事にしましたが、一緒に走っているうちに結構な速度になっていました。

ただ、あの日のセヴンとは動きが違います、なにか路面の状態が手に取るように解ります、といっても決して硬いわけではなく、ブレーキも強く踏んでもしっとり効き、ステアリングもコーナーに対して舵角がピタリと決まりそのまま片側車線をスッと抜けて行けます。

夜ミで弄くりまわされたおかげでしょう。1週間に1度はエンジンのために近所を乗っていたのですが、こんなに変わっているとは、気付きませんでした。

もっともっと走りたい気分でしたが、椿ラインは終わり、湯河原の温泉街に降りてきました。

いつもならば、つきあたりの温泉街の道を左に曲がり海の方へ向かうのですが、この日は右に曲がり、また山に向かうのでした。

いつもの走りから考えると、体力的には限界だったのですが、走っている事が楽しくなっていました。

ただ、ここから先は行った事が無く、この先に湯河原パークウェイと言う新しい道が出来たことを聞いていたので、どんな道なのだろうと考えていました。

でも、その湯河原パークウェイまで行かずに、セヴンが1台1台と路肩に止まりだしたのでした。

私のセヴンも路肩に止め周りの景色を見ると、見覚えのあるような無いような変な感じがしてきました。初めての場所なのですがが初めてでは無いような、周りを見回せば見回すほど、変な感じがします。そして頭の中で、今見ている景色と記憶が凄い勢いで結びついていったのでした。



エデンとEden

そして、ここは・・・・私はシートベルトを外して立ち上がってもう一度見回しました、やはりここは確か・・・・妙な道端の箱、あの朽ち果てそうな一枚板、それにあの塔、私はすっかり思い出しました。もちろん恐怖で逃げた記憶も思い出していました。

そうしているうちに仲間の一人があの箱を開けて、中のインターフォンに喋りかけていたのです。

そう、当時変な高さと思っていた高さが、セヴンに座ったまま喋るにはピッタリです。

また、門に掛かっている一枚板に書いてある文字、目をこすりながら見ると、“the Garden of Eden”と書いてあったのです・・・・・。



私は『ここがっ!エデンっ!!』と叫びました。

そう、小学生の私には読めなかったのです。

ただ、あの時こんなところまで自転車で来たなんて・・・・・。



みんな笑っていましたが、私の小学生時代の記憶が蘇って叫んだとは誰も思っていなかったでしょう。



そして当時、人を寄せ付けないほど不気味だった門がゆっくりと開いたのです、仲間のセヴンが1台1台と、中に入って行き、私も他のセヴンと一緒に進んで、徐々に中が見えてきました。

門をくぐって最初に目に飛び込んで来たのは、あの不気味な塔です、当時は何でできているのか、までわからなかったのですが、いま見ると車やバイクの部品が高く積んであります。

それも、どの部品も割れていたり、通常では考えられないところが曲がっていたりと、小学生当時とは違った不気味さがありました。

その他、中には、5~6人位が1度に入る事が出来そうなジャグジーバス、あと8人ぐらい泊まることが出来そうなキャンピングトレーラーが2台、積載車と30フィートのコンテナが15メートルぐらい離れたところに1本ずつおいてあります。その間にはタープが張ってあり、下に車がと止められるようになっています。

他にはバーベキューコンロが4つ、母屋らしきログハウスと車が3台は入りそうな立派なガレージが見えます。

まだまだ何かありそうなので見回していると、オーナーらしき人が出てきて、セヴンをコンテナとコンテナ間に誘導しています。私は、まだここがどういう所なのか分かりませんでしたが、この時やっと小学生の時の恐怖から開放されたのでした。

そして私達はセヴンを奥から1台1台ギリギリに詰めて止めていき、既に止め終えた何人かが森の中に走って行きました。私のセヴンも止め終えて、森へ行って見ると、そこには、川があって熱かった体を冷やすには調度良く、みんな服を着たまま首まで浸かっていました。

私はとりあえず、荷物を降ろしにセヴンに戻ると、嬉しそうな顔をして仲間の一人が手招きをしてきました、行って見ると、母屋の横にあるガレージを見せてくれるそうです。

これだけ立派なガレージと言う事は、普通の車が入っていない事は、察しが付いたので、中を見るのが楽しみでした。

扉を開けると冷気が出てきました温度湿度管理されているのでしょう、明かりを点けて裸電球の光に静かに浮び上がってきたのは、綺麗に使い込まれたグレーのジャグアーと黄色のディーノでした。これは見るからに博物館物です。

オーナーが説明に来てくれました。グレーのジャグアーは1957年式のXK150をレースカーとして改造された物をアメリカからオーナーが持ってきたそうです。

もう一台の黄色のディーノは1970年式でイタリアの古い倉庫に眠っていたホワイトボディーを日本に持ってきて組み上げたそうです。このディーノのボディーは206から流用されたハンドメイド・アルミボディで世界に2台と無い物だそうです。

うらやましい限りのレアな車です。

そんな話を聞いているうちに肉の焼けるいい匂いがしてきました。オーナーの奥さんが大きな肉の塊を持ってきました。会長の『さぁバーベキュー始めるよぉ~』の掛け声で人が集まってきました。ビールサーバから生ビールが回ってきて、やっぱり会長の『お疲れさぁ~ん乾杯!!』で始まりました。バーベキューコンロには肉、野菜、海産物でいっぱいです。

最高の仲間達と、うまい料理で最高の時間を過ごしています、こんなに楽しめる自分が不思議でした。腹も落ち着いた所で何人か毎にジャグジーに入り、私が小学生時代のここの噂話をしたところ、みんな大笑いでしたが、オーナーもそういう噂があったことを知っていたようでした。

そして、オーナーがここの歴史を話してくれました。ここは元々ある有名な車のコレクターが夜な夜な椿ラインを走るためだけに作ったところで、最初広い土地に母屋とガレージしかなくちょうど30年ぐらい前に初代オーナーが買い取り、現在のようにコンテナなどを置いてエンスーな車のクラブと契約して集会や保養施設として利用されるようになったそうです。

当時は色々な噂話から変な宗教団体と間違えられ、近隣住民に理解してもらうのが大変だったそうで、今は年に何度か、エデンを開放し、お祭りのようなことをして、一般の人の出入りを多くした事により理解してもらったようです。私は30年かけてここを知る事ができました。

そして今のオーナーは2代目で、私が子供の頃は初代オーナーだったということでした。

夜が更けたところで、何人かがキャンピングカーに入り、私はセヴンの横で寝袋に入りました。



何時間も経たないうちに、轟音で目を覚ましました。時計を見るとまだ5時、何台かのセヴンとあのジャグアーがエンジンを温めています、そして暖め終わった車が1台1台とあの門をくぐって出て行きました。

そこで分かったのがあのモニュメントと積載車です。ここは椿ラインのすぐ近くなので、塔が大きくなるはずです。

ただ、私のセヴンもあの塔の一部になる事なんて全く考え付きませんでした。



新しい感覚

もうすっかり寒くなった11月にクラブでショートサーキットを借りて走ることになりました。

SEVENTH HEAVENに参加した理由の1つにあのしなやかな走りの習得があり、ここでじっくり見させてもらい実践する事が出来れば同じように走る事ができるとの思いから、タイヤを新調しブレーキバランサーを付けたりと走行会に向け準備をしました。

場所は茂原、家から2時間ぐらいの所で、1周500mぐらいの小さなサーキットです。

走行会当日、このサーキットでの一つの壁は1分を切ることです、さすがほとんどのセヴンが50秒台にまとまって居ます。

私の番です、始めてサーキットを走ります、もう心臓が口から出そうです、まずはスピンをしないように走ろうと決めていました。

1本目1分4秒、スピンはせずに済んだのですが、タイヤがズリズリするほど走って見た結果がこれでした、ちょっと残念でした。

次はスピードを出してガンっとブレーキを踏んで走ろうと思ったのですが、速い人の走り方は、スキール音も鳴らさずあまり攻めているように見えないのに54秒です。

私の一本目より10秒も速いのです。何処違うのか分からないので、ベストタイムの人からアドバイスをもらう事にしました。

すると、とにかくギヤチェンジ、アクセル、ブレーキをソフトに速く、とのことでした。

私の考えと逆でした。

2本目はアドバイスされたことを何度も何度も頭の中で繰り返して気持ちソフトに走ったところ1分1秒でした。

実は走った感じでは速く走った感じが、しなかったのですがマイナス3秒でした。

全然わかりません、再度アドバイスをもらいに行くと、まだ攻めすぎとのこと、もっとやさしく荷重移動を少なくとのこと・・・・、もっと分からなくなりました。

この日のためにブレーキバランサーの前後配分を7:3にしていましたが、とりあえず前後配分5:5に戻す事にしました。

そして、ソフトにステアリングを抉らず走ったところ59秒でした。壁は越えたのですが、どうしてこの走り方で良いタイムが出るのかがわかっていません。

次のアドバイスはサスペンションをもっと使えとのこと、確かに見た目重視で車高を低くしていたため、“サスをもっと使え”と言うことは、もっとストロークさせろと言う事なので、2cm程度だったストローク量を倍の4cmにして、しかもフロントを若干高めにしました。

するとどうでしょう、スキール音もならず58秒で走る事が出来ました。

一本目からすると6秒もの短縮でした、これは見ていた人も驚いていましたが、一番驚いていたのはもちろん私です。

この日の走行会のタイム計測は終わりでした。ただその後は自由走行とのことだったので、2本走らせてもらいました。

一本が調子に乗ってスピンしてしまい、もう一本が自分の時計で何と55秒が出たのでした。このタイムはクラブの中でも上位です。

これで、体はマスターできたはずなのですが理論がわかっていません。

どうして速く感じないのに良いタイムが出るのか、他のメンバーに聞きまわりました。

そしてわかった事は、今までの走り方はアクセル、ブレーキ、クラッチを激しく使い前後左右のGを楽しんでいる走り方で、Gを体に感じるため一見速く走っているように感じるのですが、タイヤの限界が早くなってしまい、逆にスピードが出ていないのです。

ここでまず、アクセル、ブレーキ、クラッチをソフトに使うことにより、タイヤの限界高め、タイムアップしたことがわかりました。

そして次にサスペンションを動かすようにした事で、タイヤが地面に対して垂直になっている時間が多くなりタイヤ本来の性能を発揮する事が出来て安全に速く走れたことがわかりました。

そして最後にもらったアドバイスは、少しキャンバーをつけて一度アライメントを取りなおす事で、まだタイムを縮める事が出来るとの事でした。

この走行会により、もっともっと速く走りたくなり、椿ラインのリベンジもそう遠くないはずと思うようになったのでした。

そしてアドバイスどおり、すぐにキャンバーとアライメント調整の予約をしました。



セヴンとの別れ

エデンとの再会を果たしてからは、思いついた時にセヴンでエデンに行って美味しいコーヒーを味わう時間を楽しんでいたのですが、唯一梅雨の時期だけは出かけるのが嫌になります。

走行会の後にセヴンにはキャンバーをつけてアライメントを調整しなおしてあったので、今回の梅雨明けは、特に待ち遠しく感じていました。

そして昨日セヴンに乗り出して3度目の梅雨明け宣言を聞き、明日は8月最初の日曜日だったので、今日のうちにエデンのオーナーに頼まれていたパイプタバコの葉を買って、箱根に登り椿ラインでセヴンの調子を見てからエデンに苦いコーヒーと甘いシナモンロールを食べに行くことにしました。

その日はいつものように朝早く起きてガレージに行きセヴンに荷物を積み込み、出発しました。

東名を走り厚木から小田原にぬけて、ターンパイク走り大観山パーキングに着いたのですが、セヴンの感じは高速道路ではステアリングが軽く感じ、ターンパイクでは、タイヤのグリップが上がったような感じがしました。どちらにしても椿ラインで、わかるはずです。

久しぶりの大観山パーキングです、もう数え切れないぐらいここに来ていますが、こんなに気持ちがいいの日はそうありません。雲ひとつ無い芦ノ湖の向こうに富士山がくっきり見えます。

トイレに行ってから思いっきり深呼吸をして、椿ラインを走る事にしました。

キャンバーとサスペンションの具合を確かめるために、コーナーを1つ1つで変わったところが無いか確認しながら走りました。

きついコーナーでは、キャンバーの具合でステアリングが若干重くなりましたが、車体がロールしている時のタイヤの接地感が増しました。また、以前路面のうねりで車体が跳ねていたのが、サスペンションが路面うねりを吸収しています。

そのまま気持ち良く湯河原まで来たので、一旦、セヴンを路肩に止めてタイヤの接地具合を確認したところ、均一に接地しているのが分かったので、もう一往復楽しんでからエデンに行くことにしました。

ハーネスをきつく締めなおして、グローブをした手でステアリングを左右に回してから走り出しました。

登りは、エンジンを回すことが出来るので、とても気持ちがいいです。

1つ、2つとコーナーを抜け、道が登り下りに別れているコーナーを抜けた直線で、突然後ろからウエストゲートの響きと共に真っ赤なインプレッサが抜いていきました。

私とセヴンは、走りの確認中でしたが、走りにはまだまだ余裕があったので、そのインプレッサに付いて行くことにしました。直線が長いとさすがに離されますが、コーナーへの突っ込みで追いつきコーナーリング中はまだまだ余裕があります。

この時、私は運転に集中し周りの音があまり聞こえないような感覚になっていました。

少しの間インプレッサとは同じ距離を保っていましたが、この先に左コーナーが2つ連続で続くところを思い出していました、そこは反対車線を利用すれば1回のコーナーリングで通り抜ける事が出来ますが、昼間の場合、対向車が来るのがヘッドライトでわからないため、センターラインをはみ出すことはとても危険です、通常1つ目のコーナーで減速したあと、次のコーナーまでの直線が短いため、インプレッサは加速できないはずです、加速できたとしても1つ目のコーナーはその分減速しないと2つ目が曲がる事が出来ません。セヴンはこの短い直線でも加速する事ができるため、対向車を目で確認してから抜けるはずです。

万が一インプレッサが最初のコーナーで反対車線を利用した場合、イン側に入って抜くことが出来ます。

迷っていましたが、インプレッサはブレーキを使いすぎてか、段々走りにくくなっているようです。

セヴンはまだまだ余裕があります。

そして、目指すコーナーに来ました。案の定インプレッサは反対車線には、はみ出さずにタイヤから白煙を噴いて減速しました。多分十分減速して次のコーナーの手前まで加速しようとしていたのでしょう。ただ、車体が暴れています。

そこで私はインプレッサのリアバンパーにセヴンのノーズをギリギリまで近づけて、1つ目のコーナーを抜けてすぐに反対車線に車が居ないことを確認し、一気に加速してインプレッサを外から抜き去り、次のコーナーの減速時にはインプレッサを従えていました。

後ろでウエストゲートの音が五月蝿いので、先に行かす事を考えていましたが、この先に長い直線がいくつかあるので対向車が居なければインプレッサは抜いて行くと思い、そのまま走りの確認をしながら走ることにしました。

いくつかのコーナーを抜けて、長い直線もあったのですが、インプレッサはセヴンを抜いていきませんでした。後いくつかのコーナーを抜けると大観山パーキングです。

そしてこの先のコーナーはヘアピンのような形のコーナーで車線が広めになっていて、アウト側がパーキングになっているところです。そしてそのコーナーにさしかかった時、後ろに居た赤いインプレッサが、突然凄い勢いでバックミラーに突っ込んで来たかと思うと、反対車線に飛び出し4つのタイヤから煙を噴出しながら横向きで、セヴンの横にならんできたのです。そしてインプレッサのフロントバンパーがセヴンのリアフェンダーからノーズをかすめるように横にスライドさせて行ったのですが、インプレッサはそのまま失速し、セヴンのラインに入って来ました。このままだと、インプレッサに追突してしまうため、ブレーキを踏んだところ、フロントタイヤがロックし白煙を出しながら反対車線に飛び出していました。インプレッサにはぶつからずに済んだのですが、そのままガードレールの下にセヴンのノーズが入ったまま横に滑りガードレールの支柱が左フロントアームに引っ掛かりその反動で左アームを中心に投げ出されて道を横切ってリアパネルが反対側のガードレールにぶつかって止まりました。ノーズから白い煙が上がっていました。

私の頭は真っ白になりましたが、手足が動くこと、首が大丈夫な事を確認して、すぐにキルスイッチを切り、ハーネスを外してセヴンから降り、走ってくるバイクに停止するよう、手を振っていました。

それからすぐに見ていた人たちや、車やバイクを止めて降りてきた人たちが手伝ってくれて、セヴンをコーナーの外側にあるパーキングに移動させてくれたのでした。

見ていた人たちの中には赤いインプレッサの無謀な運転の事を言っているのが聞こえましたが、私はそれまでの経緯があったため何も言うつもりはありませんでした。それよりこの状態をどうしていいのか迷っていました。

まず行き先であったエデンのオーナーに電話をして状態を説明したところ、積載車で20分も掛からずに来てくれたので安心しました。

エデンのオーナーからは『派手にやったねぇ、けど、あきらめなければ治るよ』と言葉をかけてくれました。

ただ、積載車に載せるのも大変な状態で、とても元通りになるとは、思えませんでした。

エデンに着いて屋根の下にセヴンを入れてから、あらためて見てみると、左上下アームは外向きに曲がり、フロントホイールは両方曲がり空気も抜けています、アームの付け根のフレームも曲がっています、サスペンションは折れ、ステアリングもラックが壊れているようで、回りません、左のアルミパネルが歪んでいるのでフレームも相当曲がっているようです。

エデンのオーナーがコーヒーを入れてくれたので、少し落ち着こうと思い座りました。熱いコーヒーを飲むのと一気に涙があふれてきました。

すこし落ち着いてから、SEVENTH HEAVENの会長に連絡し事情を説明したところ、後日みんなで考えようとの事でした。電話の後、会長の『みんなで考えよう』の言葉を思い出しまた、また涙が出てきました。

その日はエデンのオーナーが気を使ってくれて、家まで送ってくれましたが、家に着いても何もする気になれず、何を聞いてもただ音が鳴っているだけで、視界の全てが白黒になっていました。

ガレージに入り蛍光灯を点けて、いつもあるはずのやつが居ない、セヴンが来てわずか3年でこんなことになったことを心の底から後悔をしていました。

そして泥沼のような1週間を過ごして、週末エデンに行くと、もう既にSEVENTH HEAVENの何人かが私のセヴンを見ていました。

私は事故でエデンのオーナーに渡すのを忘れていたパイプタバコの葉を持って行き、母屋から出てくると、どの人も『埼玉に有るフレームに変えちゃったら』と言う人ばかりでした。その中で一人『治るよ』と言う人が居ました。

それは金属加工屋さんのSueさんで、Sueさんが言うには、全てバラしてフレームの曲がっているところを切り取っていき、曲がっていない所から作り直すということでした。

ただ、それには水平な場所が必要で、出来たら平らな治具が必要でした。埼玉には治具あるそうなので埼玉に運ぶことも考えましましたが、埼玉だと行かれて月2回です。エデンで治すことが出来れば、毎週来る事が出来ます。悩んでいるとエデンのオーナーからコンテナの中を片付ければセヴンのフレームぐらい入るし、コンテナを置く時に大体水平は取ってあるからそれで良ければ使ってもいいと言ってくれました。

Sueさんに見てもらったところ、30cmぐらいの鋼材をいくつか用意して水平機で確認しながら作業すれば出来るとのことだったので、私はSEVENTH HEAVENのメンバーに手伝ってもらいながら、エデンで治すことにしました。

それが決まると、このメンバーは早いです、この前のように寄って集ってばらし始めたので、私はコンテナの中を片付けました。

私は汗をかきながら周りを見ると、エデンとSEVENTH HEAVENのメンバーが居てくれれば、きっと何とかなる気がして、少し嬉しくなってきました。

暗くなるころにはエンジンも降ろされて、あとアルミパネルを剥がせばフレームだけの状態になるところまでになっていました。

そして、外されて再生できない部品は例の塔に積み上げられていました。

まだ入り口にたどり着いただけで、見通しは全く付きませんが、何とかなる。いや、必ず何とかしてやるという気持ちになれました。



そして結局Sueさんにフレームのほとんどやってもらいましたが、運転席の寸法を自分に合わせたり、今まで無かった補強をいれたりで、事故から1年経っていました。

ただ、フレームを作るのに1年かかった訳ではなく、色々構想を練りながら作業をしていて1年が過ぎたのでした。

構想の中でも大きいのは、元々セヴンはフレームのしなりもバネの一部にしていて、足回りが硬くてもフレームで吸収していましたが、今回は良く動く足を作ることにしたため、フレーム全体を補強しロールケージも補強の一部とするため、バードケージします。そして足回りはフロントをワイドトラックにしてサスペンションをインボード化する事で短いサスペンションでストロークを稼ぎます。リアはリジット式から独立懸架にします。

これを前提にフレームだけの時に出来ることを全てやっていたので、最初の溶接部分が錆びるほど時間をかけていました。

後は、やはり椿ラインで事故を起こしては入ってきたkawasakiのバイクがありエンジンだけが無傷だったため、利用する事にしました。実はこれは最初SEVENTH HEAVENのメンバーの物を、見た時に最終的にやって見たいと思っていたことで、排気量は1200ccといままでよりも400ccも少なくなりますが、車のミッションが要らなくなり、かなりの軽量化になります。これが今の構想です。

これを実現させるにはまだまだ時間とお金が掛かりますが、私のセヴンの事で仲間と一緒になって考えて、それを少しずつ実現させていく時間が充実していて楽しいのです。

たまに走りたくなった時は、エデンのオーナーに乗り方を教えてもらったジャグアーとディーノがあります。

もちろんエデンの仕事も手伝います、最近では仕事のほとんどを私が覚えたため、オーナー夫婦が旅行に出るようになりました。

そしてこんな生活が何時までも続けばと考えるようになっていたのでした。



手紙

セヴンは形にはなってきたのですが、資金が底を付いてしまい、作業は進めているのですが、以前のようなスピードは無くなりました。

ただ、毎週エデンに行く生活は変わっていませんでした。

相変わらずエデンには個性の強い車の集団が毎週毎週必ず来ているので、週末は楽しく忙しくしています。

エデンのオーナーは時間を見つけては、椿ラインを走っていて、私も頻繁にディーノに乗っているせいで足回りへたりを感じるようになり、リフレッシュを考えているようです。

私が毎週末エデンに行き出して3年を過ぎたある日、オーナーと二人でバーベキューコンロの掃除をしていたところ、お腹を抱えて座りこんでしまいました。

少し前より肉の焼ける臭いが気持ちが悪いとか、胸が焼けるとか、言い出していたので、一度検査に行った方がいいと言って、土日に肉を焼くのは私がやっていました。

ただ座りこむような事は初めてだったので、その日のエデンの予約をキャンセルし、すぐに近くにあるK大学病院に連れて行ったのでした。

診察が終わり待合室にいると、オーナーの名前が呼ばれ、後から私も呼び出されたのですが、医者からはなるべく早めに精密検査をするための検査入院を勧められました。病院の帰りは何を話していいのか分からず、長い時間無言のままエデンに帰ったのでした。

エデンに戻ってから、オーナーの奥さんと3人で医者から言われた事を話し合い、オーナーを説得し週明けに入院する事にしました。

私は、私ぬきでの話しも有るだろうし、翌日の準備が残っていたので、母屋から出てコンテナの中から機材を出していると、オーナーがパイプタバコを燻らしながら私の所に来て『あしたの予約も断ってくれ、そして明日は俺に付きあってくれ』とのことでした。

オーナーに言われた通り、すぐに予約をキャンセルする連絡を入れたのですが、オーナーとは長い付き合いの人ばかりなので、断るのに時間がかかってしまいました。一段落した時は9時を回っていました、今日の予約で準備が終わっていたジャグジーに一人で入ってからエデンの中を一回りしてから、コンテナの中で寝袋に入りました。

目を覚ますと、オーナーがディーノの整備をしていました、近くに行くと助手席を指差し『乗れ』 というしぐさをしたので急いでサンダルから靴に履き替えて乗り込みました。

オーナーはパイプを銜えたまま運転席に座りエンジンを掛けた後、ハーネスをきつく締めました。

いつもと何か違う雰囲気を感じ私もハーネスをきつく締め直しました。考えて見るとディーノの助手席は2度目で、最初はここに通い始めたころにDK山パーキングまで助手席に乗り、帰りに運転をさせてもらった時以来でした。

走り始めると思っていたよりもスピードは出さずに、YG原パークウェイを登り、ASN湖スカイラインに入りました。

入ってすぐの所にある、パーキングの有るコーナーでディーノを止め、窓を開けたので私も窓を開けました。オーナーはアクセルを一回煽ってエンジンを止めました。一瞬無音になり、車内を風がぬけていきました。

オーナーがパイプタバコの準備をしたあとに、パイプに火をつけながら喋り出しました。『おい、今から言うことを良く聞いてくれ、俺は明日入院するが』と言った所で私は『入院と言っても検査じゃないですか』と言ったのですが、オーナーから『いいから黙って聞いてくれ』と言ったので黙りました。いつもの甘い香りが漂う中『俺は明日から検査だが入院する、自分の体は自分が一番良く分かっているつもりだから、多分すぐには帰って来られなくなる、だから俺が居ない間エデンとこのディーノの面倒を見て欲しい、そしてあまり先のことは考えるつもりは無いが、万が一の時はジャグアーを売ってエデンの中にお前の家を建てろ、今の母屋はうちのやつが死ぬまで住ましてやってくれ』 だった。何も言えなかった、沈黙の後、オーナーはパイプタバコの火を灰皿に落とし、窓を閉めて走り出したのですが、ディーノのエキゾーストがなぜか悲しげに聴こえました。

翌朝は会社に適当な理由を付けて、有給休暇を頼み、オーナーを病院に送るための車をジャグアーにするための準備をしていました。このジャグアーは2枚ドアなのですが、元々4人乗りで、リアシートがあったところにはロールケージが張り巡らせて2人乗りになっています。ただ、ロールケージの間に一人だけならなんとか乗るスペースがあるため座布団ひけば大丈夫です。あと荷物はトランクなのですが、この車のトランクの半分以上は安全タンクが納まっていますが隙間を使えば荷物を載せることは出来ます。

私は入院の荷物を母屋に取りに行き、トランクに詰め込んだ後、ジャグアーのエンジンを掛けて、ロールケージの間に入って待っていると、オーナーがパイプをくわえながら笑い顔で運転席に座りました。そしてすぐにオーナーの奥さんも来て、笑いながら助手席に座ったのでした。オーナーが『おい!これじゃあ入院する気分にならねぇ』と言い、バックミラーを私に向けてくれたのですが、自分で見ても檻の中にゴリラが居るようでした。みんな笑顔のままオーナーはバックミラーを元に戻し病院へと走りだしたのですが、エデンの門をくぐって、通りを走り出した時、オーナーが何度もバックミラーでエデンを見ているのがわかりました。

途中、病院の人たちに配るためにプリンの美味しい店に寄ってから病院に向かいました。

病院に着くとオーナーの希望どおり、安い6人部屋で、同じ部屋の5人に挨拶をして、病院着に着替えるとすぐに感じの悪い看護婦が迎えに来てオーナーは検査に行ってしまいました。

オーナーのベッドは部屋の一番窓側で窓からは海と駐車場が見えて、私達が乗ってきたジャグアーも見えました。

オーナーが一度、眼鏡を取りに戻ってきたのですが、まだ検査が続くようだったので、私達はエデンに帰ることにしました。

病院を出てジャグアーに乗り込むと、オーナーがいる病室が見えました。

私はその病室を見つめて『絶対に何でも無い』と心の中で何度も言い、ジャグアーのステアリングを力いっぱい握り締めて、額に跡が付くほどステアリングに頭を押し付けていました。エンジンを掛けようと助手席を見るとオーナーの奥さんも手を合わせていました。

それからオーナーの奥さんとは、ほとんど会話の無いままエデンに帰り着き、夕食に誘われたのですが、明日は必ず会社に行く必要があるのを理由に断わり、荷物を車に積み込んだ後に挨拶をしてエデンを出ました。帰り道は不安そうなオーナーの奥さんの顔が頭からはなれないまま自宅に着いたのでした。

その日の事はSEVENTH HEAVENのメンバーにメールで報告して眠ったのでした。



検査入院なので、1日か2日で連絡が来ると思って待っていたのですが連絡は来ませんでした。私からも連絡を入れたのですが、連絡がつかず無理にでも時間を空けて病院に行きたかったのですが、結局週末になってしまいました。

病院に向かう車の中で、何でも無い、何でも無いと念じながら病院に行き、小走りで病室に行くとオーナーのいるはずのベッドはきれいに片付けられていて、もう一度何でも無いと念じ、近くにいた看護婦に聞いたところ、今朝退院したとのこと、私は急いで車に乗り込んでエデンに向かいました。エデンに着くと、いつも閉まっている門が開いていて、中には個性の強い車がたくさん止まっていました。

人が多い中オーナーを探して見回していると、母屋のウッドデッキにオーナーとオーナーの奥さんを見つけ、笑顔で手を振っているのがわかりました。

この人たちはみんなオーナーのことが心配になって来たのでしょう。そう、100名はいると思います。

私は『良かった、本当に良かった』と小さな声で言いながら、コンテナに行って中にある自分のセヴンのフレームに座り込みました。

ただ、オーナーの奥さんの笑顔が、なぜか気になってしょうが無かったのです。

その日はみんな夕方には帰って行き、私はコンテナの中で自分のフレームを磨いていたところ、甘い香りしてきてオーナーが来たのがわかりました。

私は黙ったままでセヴンの作業を進めていると、オーナーが話し始めたのでした。

オーナーの話が終わる前に振るえが止まらなくなり、思わず工具を落してしまいました、工具の金属音が悲しく響きました。

検査結果は末期の胃がんで、余命6ヶ月だそうです、放射線治療を行っても治る確率はほとんど無く、新薬を使用すれば治る可能性もあるとの事でしたが、オーナーは断ったそうです。そして治療では無く痛みが酷いようであれば痛み止めを少しずつ増やしていく方法を選択したとのことでした。

私は振り返ってオーナーの顔を見ることが出来ずに『なんで・・・』と声になっていたか分かりませんが、セヴンのフレームを握り締めていました。

そしてオーナーは黙ったまま母屋に帰って行きました。

オーナーの足音が聞こえなくなって、初めて振り返ると、そこにはコーヒーと手紙が置いてあったのでした。

その手紙には、これから奥さんと旅に出る事、奥さんの事、ジャグアーとディーノの事、エデンの事でした。

私はオーナーに今何が出来るのか、何をしなければならないのか、一晩考えました。

そして出した結論は、会社を辞めること、オーナーがいつエデンに帰って来ても今までと同じにしておくこと、そしてジャグアーとディーノを処分することでした。

次の日、オーナーに私が考えたことを言うと、ジャグアーとディーノの処分はオーナーに猛反対されましたが、現状を維持してくれて、お金が出来たら買い戻せる人を探すことを約束して了解してもらいました。

翌週、私は会社に辞表を出したのでした。23年勤めた会社でしたが、もう未練はありませんでした。

会社で送別会をやってくれるようでしたが、私にはそんな時間が無かったので丁重に断わり、荷物をまとめながら、友人にはこれからのことを話して、荷物の送り先はエデンです。

最後に会社を出る時は、一度振り返り感謝とも何とも言え無い挨拶をし、まるで最初から決まっていたかのように何かすっきりした気分出会社を後にしました。



ジャグアーとディーノの行き先探しは、そう時間は掛かりませんでした。カークラブ人が状況を分かってくれて、思った以上の金額で、それもエデンに置いたままで良いと言う好条件でした。

次に私はエデンに似合う新車のキャンピングカーを探し出し1週間で納車してもらう約束をしました。

納車の日はオーナーと奥さんにも立ちあってもらい説明を受け、オーナーにキーを渡しました。

そしてこれからのためにと残ったお金を全てオーナーに手渡したのでした。

旅の準備をしている間のオーナーの体調は以前よりも、大夫良くなっているように見えました。

キャンピングカーを見ると生活するための物が積み込まれていて、もういつでも出発出来るように見えます。



その翌日、オーナーが私の居るコンテナの所に来ました、『*月*日出発する、あんまりゆっくり出来ないからな』でした、『・・・・・』私は何も言えなかった。そしてオーナーが『これ』と言って私に手渡してくれたのは、エデンの鍵一式でした、それを受け取る時、オーナーが『これからは、お前がエデンのオーナーだ、もう私が教えることは何も無い、これから私のことは林と呼んでくれ』だった。やはり何も言えなかった。

オーナーとはエデンのこれからについて、やディーノとジャグアーのこと、オーナーの方から定期的に連絡を入れてもらうなど十分話し合い、とうとう出発の日がきました。

オーナーは思っていた以上に元気です、このまま奥さんとずっと日本中を回ってまたエデンに帰ってくることを約束してもらおうとお願いしたのですが、約束はしてもらえませんでした。

でも、これが最後にならないことを約束して、硬い握手を交わし旅立ったのでした。

オーナーがカークラブの人たちには何も言わずに出発するという希望だったので、見送りは私一人でした。

私は門の外に出てキャンピングカーが見えなくなるまで手を振っていました。

すると、何処からとも無くクラクションが鳴り出してきて、キャンピングカーが見えるところまで走って行くと、そこにはロータス、アストンマーチン、ジャグアー、フェラーリ、ランボルギニーが綺麗に路肩に並んで、ドライバーのみんなが手を振っていました。

その横をキャンピングカーがゆっくりと進んでいました。

この車のオーナー達はどうやって出発日を知ったのでしょうか、やっぱり大勢で見送った方がよかったと思いました。

オーナーの顔は見えませんが絶対に喜んでいます。

そんな出発から3ヶ月が過ぎて、北海道から1枚の絵葉書が届きました、林さんは痛み止めを増やすことなく生活しているとの事、最後に“楽しくやっているよ”と書いてありました。

このまま治ってしまうのではないかと思えるほど、文章や文字に力強さを感じました。

エデンは相変わらず週末は忙しくて、SEVENTH HEAVENのツーリングには行けなくなりましたが、椿ラインではディーノを結構速く走らせています。

40歳を過ぎてからの私の生活は一変しました。これもセヴンと言う車に出会い、そして仲間に出会ってエデンを知りました。

小学生の時にエデンを始めて知ってから30年以上経って、本当のエデンを知り、今度はエデンで生きる事になったのです。



そして、ここで始めて私の家族を紹介します、それは、色々な行き違いがあって10年近く別居状態だった妻と息子2人がエデンに来てくれて、今ではエデンの仕事を一緒にやっています。

エデンは複雑な人間関係もやさしく紐解いてくれたのです。おかげで、私自身も普通の人間として生きて行けるようになりました。

私のセヴンはまだ完成していませんが、息子達と少しずつ進めています、焦る事は何も無いのです、少しずつ作り上げます。



長い話しでしたが、エデンはそんな所です。

えっまだわからない?じゃあ一度来てください、是非。



林さんは余命半年と言われてから、もう2年経っています、半年に1度ぐらいのペースで検査を受けにエデンに来て、大騒ぎをして、また旅に出ています、多分治ったんじゃないですか・・・・・・?



Fin


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