Stand by me

ふつう

高校生活はバイク三昧、勉強の方はほどほどで、3年を終える前に親と将来の話しになりました。この時私は、自分の本当にやりたい事が言えないまま親の言う通り大学進学の道を選んで、無謀にも有名大学を受験したのでした。

当然受かるはずは無く、翌年に可能性を求めて浪人し、予備校に通い出したのですが、いつの間にか高校時代の悪友と行動を一緒にしているうちに自分のやりたいことは、美術だと勘違いをしてしまい、友人が通っている、美術大学の予備校にもぐりこみ、ほとんど独学で勉強をして美術大学を受験したのでした。

まぐれで1次試験に合格することが出来たのでしたが、その通知を親に見つかってしまい、猛反対されて意気消沈・・・・もう1浪を親に申し出たのでしたが、ここでも親から『今からでも受験出来る大学を探し出しなさい』の言葉で、何校か二次募集している学校を探し出して受験したのでした。

その中の1校で、上中下で言うと中の大学でしたが、なんとか合格することができ、通う事になったのでしたが、大学に行ってみると、浪人してまで入る大学では無かったため、同い年の同級生はいませんでした。というより、いないと思いこんでいましした。

このため、自分だけクラスでもちょっと浮いているような気がして、サークルにも入らず、自分からはほとんど喋る事も無く、必要最低限の会話だけをして、大学生活を送っていました。

大学へ行く他は、バイトと適当に勉強をして、自分の中でここも義務教育だと諦めて通っていたのでした。

そんな学生生活でも興味を持って楽しめたのが、高校時代から乗っていたバイクのエンジンのことでした、今考えて見ても不思議なのですがエンジンが自分の中で生き物のように感じられて、ペットか友達のように感じていました。

多分自然と親の顔色を見て、言い合いになるのならば、自分を押し殺して、みんな笑顔で居られる方を選んでいたことで、何も文句を言わず自分の言う事を聞いてくれる機械が唯一の友達と錯覚していたのかもしれません。

とにかくエンジンと付く物すべてに魅力を感じ、部品一つ一つの機能やデザインに魅了されていました。

関係書籍を読みあさり、最初は模型のエンジンを買ってきて、バラしては組み立てを繰り返していたのですが、部品の機能がわかると削ったり磨いたり壊れるまで弄りまわして、次ぎ次ぎにエンジンを買い、またバラしては組み立てを繰り返しているうちに、購入するエンジンが徐々に大きくなっていったのでした。

ついには、通学に使っていた原付は、ただ同然で買ってきたボロボロの富士重工製のラビットと言うスクーターで、自分よりずっと年をとった物でした。

それも当然のように一度バラバラにしてから組み立てた物だったので、周りではほとんど見かけることのないスクーターでしたが、とても調子の良い物でした。



ある寒い冬の日の夕方、通学に使っている駅の駐輪場から、その原付を出していると、今まで聞いた事も無い音と共に地面スレスレになった車が、私の前を通りすぎて止まったのでした。

そしてエンジンを1回空吹かして止めると、一瞬周りが静寂に包まれたのでした。

それから私は時間が止まったように、その光景を見つめていると、助手席から暖かそうな革のジャケットを着た女性が降り、革のジャケットを脱いで助手席に入れると駅に向かって歩き出して行きました。

運転席の男性はそれを見送ると、エンジンを掛けなおして走り去って行ったのでした。



私の視線が釘付けになった車の事が知りたくなり、目に焼きついた情報を元に調べて“スーパーセヴン”と言う名前を知ったのでした。



大学生活は学校に行く以外のほとんどをバイトとエンジンのことに費やし、成績は中で、得意な科目、不得意な科目も無く、単位も落とさずに4年で終える事が出来たのでした。

そして私達の就職時期はバブル期という金銭がやたらと飛び交った時期だったこともあって、学校から紹介してもらえる企業は、1社や2社ではなく複数もらうことが出来ました。

父親からは、『これからの時代はコンピューターだ』という事を強く言われていて、学校から紹介された会社の中からコンピューター関係の会社だけを選んで採用試験を受けていました。

ところが、受けた会社は、ことごとく適性検査で不採用になり、適性が無いのだと諦めて他系列の会社を考えれば良かったのかもしれませんが、父親に言われたとおりにコンピューター関係の会社を受け続けました。

その後も不採用の連絡が来る中で一度不採用になった会社の面接担当から連絡が来たのでした。内容は、私を自社の子会社に紹介してくれると言う話しでした。

少し悩んだのでしたが、1度不採用になった会社の面接官が、わざわざ連絡をくれたので、面接試験だけでもと思って受けることにしたのでした。

面接では、定番の挨拶や将来のことを聞かれたのでしたが、『全てを忘れて打ち込める物はありますか?』と聞かれて、エンジンのことを話したところ、面接官と車の話しで盛り上がり“もしかして”という気がしていましたが、期待はしないで待っていたところ採用の連絡が来たのでした。

ほとんどの同級生が卒業旅行を楽しんでいる中、私の就職先が決まったのは卒業式の2ヶ月前でした。



A35

どうにか4月より会社員となった私は、不採用になった会社に出向して、経理系のプログラム改修や、ちょっとした表計算のプログラムを作る事が最初の仕事だったのですが、私が出向している会社の新入社員は大変で、1年間は各地の支店で業務の勉強して、その後、各店に配属されるのでした。

その点私の会社は、支店が無く仕事場へは自宅から通勤が出来たので、私は給料の半分を親に渡し、残りは全て貯金ができました。

そのため、ずっと欲しかったオースチンA35を2年で購入することができたのでした。

購入できたといっても新入社員から2年貯めたお金なので、オースチンA35の見た目はボロボロで、何とか走る事の出来る程度のものでした。

それでも、自分で買った初めての車だったので、その後は、週末になると自宅のガレージにこもって、車を少しずつバラしては、きれいにして組み立てる自己流レストア作業を続けたのでした。

そして約1年で、オールドイングリッシュグリーンのA35を完成させることができました。

塗装のほとんどは、はけ塗りでしたが、塗った後にはけの後が無くなるほど磨き上げたため、新車とは言えませんが、風合いのあるその時代からあるようなA35が出来上がりました。

A35が何とか走るようになってからは、気に入らないところを見つけては、弄り、また走らせては弄ることが休日の楽しみになっていき、テスト用A型エンジンをがもう一機購入して自己流チューニングを繰返しました。

それまでは綺麗にするだけだったのですが、少しずつ性能アップと言う領域に入っていったのだと思います。



ある日、私がいつもの道をA35で走っていたところ、後にずっと同じ原付が付いて来ているのを感じていました。

私は何か偶然だろうと、気にせずにいつもどおり家の前で車を止めると、その原付も私の車の後ろで止まったのでした。

私はA35をガレージに入れるためにシャッターを開けにA35からおりると、その原付に乗っていた人が私に話しかけてきたのでした。

私は少しびっくりしましたが、その人は、とても紳士的で愛想も良い人で、この近くに済んでいて、私のA35を何度か見ていたそうで、次ぎ見かけたら話しをしたいと思って追いかけてきたとのことでした。

その人の名前は鏑谷さんと言う方で、やはり英国車でレースをやっているそうで、とてもエンジンのことについて詳しく、私が今まで疑問に思っていた事を簡単に答えてくれたのでした。

現在スーパーセヴンとロータスイレブンと言う車を持っていて、今までに英国車だけを30台以上乗り継いで来ているそうです。

そして今度、古い車がたくさん集まるイベントがサーキットで有るので見に来ないか?と誘ってくれたのでした。

とても興味があったので、鏑谷さんの連絡先を教えてもらい、予定を確認してすぐに連絡して、サーキットに行く約束をしました。

サーキットは今まで行った事が無かったので、当日をとても楽しみにしていました。



初めてのサーキット

サーキットに行く前日は、朝早くに起きてしまいましたが、予定通り6時に家を出て2時間ぐらいかかりましたが、サーキットに着きました。

そこは私が経験したことの無い全くの別世界で、快いエンジン音とスキール音が響いていました。

その日は天気予報でとても暑くなる予報が出ていて、まだ9時前だというのに空が真っ青で雲ひとつ無く、サーキット内はアスファルトの照り返しと排気ガスのせいで、湿気を含んだ生暖い風が吹いていました。

既に待ち合わせ場所で待っていてくれた鏑谷さんに、パドック内を案内してもらい、色々な人を紹介してもらったのですが、その中にA35も複数台いて、とても参考になる話しを聞くことが出来たのでした。

他にもサーキット内には、初めて見る車がたくさんいて、どれもレース用チューニング施されて、とても興味をひかれました。

その日は予報どおり太陽が登るにつれて気温が上昇し、かいた汗もすぐに乾いてしまうほど熱くなっていました。

最後に鏑谷さんのパドックに行き、中にある平たい2台の車に目を奪われました、一台は目が痛くなるほど眩しい蛍光イエローに塗られているスーパーセヴンで学生時代に見た物と基本的に同じでしたがクラシックな感じは無く、ほぼレーシングカーでした。もう一台の方は初めて見る車でスーパーセヴンに平たいボディーを被したような、真っ白なロータスイレブンと言う車でした。

私は、以前見た記憶からスーパーセヴンの方が気になって、鏑谷さんに色々なことを詳しく説明してもらいました。

そして、このスーパーセヴンはロータス社製でボンネットを外すと、中はピカピカに磨き上げられたツインカムエンジンのヘッドカバーにLOTUSという文字が浮び上がっていました。

このエンジンは170馬力以上出ているそうで車重が500kg程度なので、パワーウェイトレシオ的には、とてつもない車です。

私はそのスーパーセヴンのことが特に気に入ってしまい、何時かは所有して見たいとまで思いようになっていました。

鏑谷さんは自分の車の調整で一生懸命になっていたので、私は一人でサーキット内を歩き回っていたところ、私の車に人垣が出来ていて、何かあったのかと思い、人垣別けて自分の車のところに行ってみると、みんな遠巻きに見ているだけでした。

一人のひとが、私が持ち主だと気付いて『ボンネット中を見せてほしい』と言われ、ボンネットを開けると“オォ~”と言うどよめきが上がり、私は自分の車がそんなに珍しがる車だと思っていなかったので、少し得意な気持ちになっていました。

こんな気持ちは初めてでした、確かにA35のボンネットの中は弄りまわしていたため、ほこり一つ無く綺麗な状態でした。

私は、人前があまり好きでは無いのですが、この時は色々な人に質問をされて、一人一人回答したのでした。

ほぼ、オリジナルの状態のA35は、逆にここでは目立つようで、中には売って欲しいと名刺を置いて行く人もいました。

この時、既にレースは終わっていたのですが、私の車の周りには、まだ人が居たため、少しスワップミートを見学して、珍しい部品を見つけて購入して、鏑谷さんの所でスーパーセヴンに座らせてもらってから帰る事にしました。

鏑谷さんとは、いつか一緒にレースをやる事を約束して、握手を交わして帰りました。



自宅に帰ってからも、スーパーセヴンの事が気になって、すぐにインターネットで情報を集めたのですが、この車は現在複数のメーカーで作られていて、どれも全くと言っていいほど、実用性が無く走るためだけに作られた車で、特に使用目的を限定出来る人が所有できるもので、車と言うよりはバイクとかレーシングカーと考えた方が良い物でした。

それでも私はその不便さがとても気に入ってしまい、インターネットで気に入った画像を見つけると、印刷して、スクラップブックに貯めていきました。

募る思いは、いつか所有したいと夢見るようになっていましたが、普通のサラリーマンが購入するには、とても遠い遠い夢の価格でした。



であい

私には会社の同期が4人いて、全員のスケジュールが合った時にだけやる、同期会と言っているただの飲み会があり、その日も2ヶ月位ぶりに会社の近くにある焼鳥屋で飲んでいました。

1時間ぐらい経ったところでトイレに立ち、席に戻ろうとした時に、突然女性に呼び止められました、私は何か落としたのかと思って、急いで振り返ったのでしたが、どうやらそうでは無く、普段から女性に縁が無かった私は、当時流行りの化粧や髪形だけを見て、顔をよく見られずにいると、『関川さんですよね』と言われ、あらためてよく顔を見ると少しイメージが変わっていましたが、大学時代の同級生だとわかりました。

大学時代にほとんど話しをした覚えがなかったのですが、クラスの中では明るく、目立つ子だったので思い出しました。

ただ、その時は別々の飲み会だったのでゆっくり話すことも出来ず、今度電話でと言うことで電話番号を交換して別れたのでした。

交換した電話番号のメモをどこにしまっていいのか迷いに迷い、結局、財布の中にしまい席に戻ったのでしたが、席に戻ると、このやり取りを同僚に見られていて、同期の中でも特に女性に無縁の私でしたので、その後はさんざん冷やかされたのでした。



家に帰ってすぐに財布からメモを出して、電話番号を見てまた財布に戻して、どうしようか迷っていました。

そして会ってからちょうど1週間後の夜に、電話が掛かってきたのでした。

相変わらず元気な声でした、電話の内容は、『車を持っている』とのことでした。私は、一応自慢を含めて外車に乗っていることを伝えると、彼女は、私の自慢には全く触れず、『あのぉ、今日車の免許が取れて、週末時間があったら一緒にドライブしませんか?』と、ちょっといきなりのことでしたが、一瞬で週末は鏑谷さんとの約束があったのでしたが、すぐに『週末は空いているからいいよ』と嘘をついていました。

そして彼女との電話の後すぐに、鏑谷さんに連絡をして週末は用事が出来てしまい予定を変えてほしいと言ったのですが、私から鏑谷さんとの約束を変えるのは初めてだったので、理由をかなりしつこく聞かれたのでした。



週末が来るのが待ち遠しく、こんな気持ちはA35の納車以来でした。

当日は必要以上に早起きをすると、今にも雨が降りそうな天気だったのですが、車にたっぷりワックスを塗って磨いていました。

磨き終わるとお気に入りのカセットテープのチェックをして、約束の時間にはまだ早かったのですが、彼女に教えてもらった住所に向かって走りだしていました。

指定された場所は、家から40分程のところで、やはり早めに着いてしまったのでしたが、そこには国産の赤い2ドアハッチバックが止まって居て、運転席を見ると真剣な眼差しの彼女が、ハンドルを握り締めて前を見ていました。

私は彼女が乗っている車の後ろに止め、車を降りて運転席の窓をノックしたところ、私が来たのに気付いて居なかったようで、ビックリした様子で、窓を開けて大きな声で『おはよう』と言ってきました。

そして助手席のカバンの中から1枚の紙を私に差し出してきました、その紙には、今日の予定が細かく書いてあり、彼女が説明してくれたのでしたが、残念な事に2人で出かけるのに、車2台で海まで行く事になっていました。

私はちょっと面白く無い気分になりましたが、彼女からすると始めて1人で走るのは不安だったようで一緒に付いて来て欲しい気持ちもわからなく無かったのでした。

でも私にしてみれば、ここに来るまで二人だけで車に乗る事に緊張をしていたのでしたが、ちょっと楽しみでもあったので、残念でした。

ただ、ここに来るまで何を喋ったら良いのか思い浮かばず、沈黙してしまったらどうしようかと考えていたので、ある意味私としても気を使わずに済んで良かったのかもしれません。



そしてこの変なデートが始まったのでした、と言うよりこれはデートなのか確認したくなりました。

彼女は最初から最後まで窓を開けたまま走り、困ったことがあるとハンドルは10時10分のところをしっかり握ったまま、大きな声で叫んでいました。私は何度も笑いながら答えました。

そんな、やり取りをしながら、途中何度か止まりましたが、雨も降る事も無く彼女が考えた予定の時間には海に着くことができました。

彼女は疲れ果てた様子でしたが、目的を達成できて嬉しそうでした。

食事は海岸線沿いの道にある有名なカレー屋さんで食事をしたのでしたが、帰りには余裕が出来たのか、私のA35のことを聞いてきたのでした。

『外車だって言っていたから、大きな左ハンドルの車だと思っていた』と彼女言い、私はちょっと“ムッと”しましたが、そういえば電話で“外車”と言った事を覚えていてくれたのかと、ちょっと嬉しい部分もありました。

私はこの車も立派な歴史のある外車であることを説明すると、彼女が『運転したい』と言い出したのでした。

私はさすがに今日はやめておこうと、必死に色々な理由を付けて説得したのでしたが、この時“ケチ”と思われたのではないかと後悔しました。

でも、正直に言うと“ケチ”でした。

そして最後に思いきって、今日はデートだったのかを聞いたのでした。

すると彼女は『もちろんデートだよ、また連絡するからね』と言って帰って行きました。



私達は何度かこんなデートを繰り返して、いつの間にか彼女(裕子)は私のオースチンA35を私以上にうまく操れるようになっていったのでした。

すぐにA35の癖を理解して乗りこなす裕子を私と同じような英国車乗りにさせたいと思い、鏑谷さんに会わせたのでしたが、私の入る隙も無く自分の方からどんどん英国車にのめりこんで行き、鏑谷さんに会わせて1ヶ月も経たないうちにレストアベースの古いミニを購入し、半年間かけて鏑谷さんのアドバイスを受けながら、ほとんど自分でアイボリー色のMk-1を作り上げてしまったのでした。

レストアの半年間は、ほとんど鏑谷さんのガレージか家のガレージでしたが、油だらけの手や半年で膝に穴が開いたつなぎを見て、裕子とMk-1が、自然にとてもいとおしい存在になっていたのでした。

その後、裕子とは、毎週のようにA35とMk-1のイベントに参加をしたり、朝早く起きてツーリング楽しんでいました。



辞令

裕子と出会ってから5年が経ち、お互いの家を行き来するまでになっていて、私はこのまま時間の成り行きで、なるようになるだろうと思うようになっていました。

そんな12月のある日、私は本社に呼ばれて海外転勤の内内示を受けたのでした。

場所はイギリスのロンドンで、期間は最低5年、長くなればビザの更新に、日本に戻って再度ロンドン勤務になるとの事でした。

正式な辞令は4月に出て5月に行くことになるのですが、3月までに労働ビザを取得しなければ間に合わないため、申請は遅くても1月中に行う必要があり、辞令を待たずに内示で準備を進めることになりました。

そしてロンドンでの仕事は、日本企業の現地法人企業に出向して、LAN環境の構築とプログラム開発でした。

この時、裕子のこと、車のことは、考えずに5月に向けての準備を進めていました。



Stand by me

転勤の事を裕子に伝えたのは、新年を向かえたA35の中でした。

私の中では、裕子から『私はどうすればいいの?』と言う言葉が帰って来て、“半年から1年待っていてほしい”と言う予定だったのですが、裕子は私の話しを聞いて少しの沈黙のあと、『それならば、すぐに英会話の学校に通って、行く準備しなくちゃ』でした。

私は『えっ』と言い、『観光ビザで何日間か滞在出来るだろうけれど、それを繰返すことは出来ないだろう、それに君の親のことだってある。どう考えても無理だよ、半年から1年は一人で行って来るよ』

裕子『結婚していたら、一緒に行けるのかな?』

私はまた『えっ』と言い黙ってしまいました。

前々から意識はしていたけれど、すぐに答える事は出来るはずも無く、ましてやこれまで一緒にいる事もはっきりと言った覚えがなかったので余計に途惑ってしまったのでした。

私は少し考えて『会社に結婚したら一緒に行けるのかとか、未婚者だから私を海外転勤に選んだのかを確認してみる』と言って結論を先延ばしにしました。

その後は、裕子の顔をあまり見る事が出来ないまま、話もそれ以上出来ずに家まで送ったのでした。



翌日、私はすぐに上司に時間を取ってもらい、結婚したい女性がいる事を相談し、もちろんこんな事は上司に相談することでは無いのですが、今の私の状況は会社側として、プラスなのかマイナスなのかを教えてほしいと聞いたのでした。

上司の方も即答できないようだったので、翌日また話しをする事にしました。

この日はロンドンで仕事をさせてもらう、現地法人の社長が来日していて、1時間だけ時間を取ってもらうことができていたので、挨拶がてら質問ともう少し詳しく仕事の内容を聞く予定にしていました。

17時に秋葉原のあるホテルの喫茶室で会う約束でしたので、16時に会社をでました。

少し前に着いたので、喫茶室で待ち合わせと言い名前を言って待っていると、17時ちょっと前に来られました。

やはり英国風のスーツをビシッと着こなしていて、背が高く品の良さが感じられました。

私は立ち上がり自分の会社名と名前を言って名刺を出すと、先方からも、○○コンピュータヨーロッパ マネージングディレクター 森木です、と名刺を渡されました。

そして私は職務経歴書を出し、それを見ながら私が今までやってきた仕事の内容を約15分話しました。するとその中の銀行の事について聞かれ、私は掻い摘んで少し詳しく話しをすると、先方から何か海外の事、ロンドンの事で不安な事は無いかと聞かれたので、治安や生活に関して聞いたところ、イギリスの夏は夜9時ごろまで明るいが、冬は3時ごろには暗くなってしまうこと、食べ物はあまり美味しい物が無い事、治安は思ったほど悪く無い、ロンドン近郊は家賃が高いこと、住むのだったら、大屋さんが下に住んでいるメゾネットタイプが比較的安いことを教えてくれたので、手帳に書きとめたのでした。あと、仕事内容について聞いたところ、今インフラを整備していて、LAN環境の構築の手伝いとVBAでの開発だと言うことでした。

あともう1つ今自分が最も聞きたかった事を直接聞いてしまう事にしました。私事で申し訳無いのですがと付け加えてから、今結婚を考えている人がいて、転勤に当たり、いく前に結婚をした方がいいのか、行って少し後に結婚をした方がいいのか?と言うことでした。

森木さんの方から『あなたはどうしたいと思っている?気持ちは既に決まっているのでは?』と言われ、顔が熱くなりました。

そして一般的な話しをしてくれました。『イギリスで日本人は他の人種よりは信用されていて、それに結婚している事で、もっと信用度上がるとのこと、また日本に何かを大事な物を置いてくるよりも、転勤先に大事な物があることで、安心して仕事が出来ることは間違い無い、私にそうゆう相手がいたのなら、夫婦で行きますよ』との事でした。

そろそろ約束していた終わりの時間だったので、私は立ち上がり『今日は忙しい中、時間を取って頂き、どうもありがとうございました』とお礼を言い、丁重に頭を下げた。

先方からは、『では、一緒にがんばりましょう。向こうで待っていますよ』と言ってくれて握手をしました。

その1時間は、気持ちが楽になった分、別な物が重くのしかかってきました。



今日、言われた事を会社に、どう伝えるかガレージのA35の前で考えていました。

確かに海外転勤を希望していた時期もあったが、以前から大夫状況が変わってしまい、大きな何かを妥協しなければうまく行かないことはわかっていた。

これから、大きな決断をしなければならない、どうしよう、考えがまとまらず、明日会社で言って見よう。



いま考えてもしょうがないよな・・・・・・の問いかけに、A35は何も言ってくれませんでした。



寝心地の悪いまま朝を向かえ、出向先の親会社に、5月に転勤する事を報告して、自分の気持ちの整理もつかないまま、本社に行き社長を待ちました。

社長が来ると、森木さんと社長は、既に話し合いをしてきたようで、社長の方から夫婦でロンドンに行く事を了承してくれました。

ただ、これにより今1月で、5月の連休には、裕子は仕事を辞めて、結婚式を挙げてロンドンに行く事になる、頭の中に色々な項目が浮び上がりました、それも順序を間違える訳にはいかないのです。

そして一番にやらなくてはいけないことができたのでした。

早速、今日はこれで帰らせてもらい、裕子に会う事にしたのでしたが頭の中に、また色々な項目が浮び上がってきました。

私は出来るだけ、“もし?”のことは考えずにメモに書き出していました。

そしてそれをどうやって5月に間に合わせるのかは、これからにかかっています。

色々自問自答を繰り返しながら自宅に帰りつき、A35で裕子を迎に行ったのでした。

裕子には『久しぶりに海沿いのカレー屋に行こう』と言っておいたので、いつもよりいい香りをさせてA35に乗り込んできました。

裕子は『この時間からだと並ぶね』と言って、A35の窓を少し開けました。

そして、何事もなかったように『イギリスの本を読んだんだけど、向こうにはちょっと毒のある食用の貝があって、とっても美味しいらしいんだけど、日本人が食べるとお腹が痛くなっちゃうんだって、フィッシュアンドチップスって言う白身魚のフライ専門店があってお酢をかけて食べるんだって』裕子はまるで旅行に行くかのように、一人で喋っていました。

私はそれを聞き緊張しだしていました。

裕子は、行く場合に前提がたくさんあることをわかって言っているのだろうか、多分今日までの流れで意識しているはずなのですが、もしかして自分だけだったらどうしよう、考えれば考えるほど緊張の度合いが高まってきました、どちらにしても今日、本人の気持ちは、わかることでした。



カレー屋に着くと案の定、駐車場はいっぱいでした。

ただ軽自動車用の駐車スペースは空いていました、私のA35は普通車なのですが、今の軽自動車よりも小さいのです、だから今日は運が良い事にして停めてしまいました。

当然駐車場の状況で、行列が出来ているのがわかっていて、裕子は私よりも少し前に降りて列の一番後ろに並んだのでした。

でも私は一番前まで歩いて行き店員と話しをしてから、裕子を迎に行きました。

裕子は最初、不思議そうな顔をしていましたが、ここで何かを感じ取ったのでしょう、黙ってエスコートされました。



店員に案内された部屋は海が見える個室で、中に入ると大きな窓の両側にトーチが灯りそこから冬の海がキラキラ光って見えました。

裕子は、店員に引かれた椅子に座り、笑顔で私を見つめていました、私は店員に『車なので、グラスワインを2つとフルーツをお願いします』と頼みました。

店員が出て行くと裕子はわざとらしく、私に『今日はどういうことなのでしょう?』と言ってきました。

私は話しをはぐらかすために、昨日会ったロンドンの森木さんの話していると、店員がワインとフルーツを持ってきたので話しをやめて、店員が『ご用がありましたらこのベルを鳴らしてください』と言い部屋を出たあと、二人とも黙ったままグラスを持って、合わせました。

『キィーン』といういい音が部屋に響きわたり、ゆっくりとワインを1口飲んでから裕子を見ると、裕子は両肘をテーブルに着き手の上にあごを乗せたまま笑顔で私を見つめていました、私も裕子の顔を見つめるために、一度深呼吸と咳払いをしました。

そして、裕子に向かって

『今日、会社側も一緒に行く事に問題無いと言ってくれました。後は君と僕の気持ちだけです。僕は君が必要で、いつもそばにいてほしい、結婚して一緒にロンドンに行ってください』

と言ったのでした。

裕子は笑顔のまま背筋を正して『はい、もちろんです』と言ってくれたのでした。

それからゆっくりと食事をしながら、これからの事について話しをしました。

5月の連休までに転勤の準備をするのと同時に結婚の準備(親への挨拶、式場探し、式の日程、式の準備)裕子の退職、新婚旅行をしなければならず、色々書き出したメモはポケットに入れたまま、今は忙しくなることを忘れて、つかのまのゆっくりした時間を楽しんで、家へ帰ったのでした。



この時、私達の大事なA35とMk-1の事は全く考えていませんでした。

そして週末は早速式場を探す予定にしていました。



そしてその週末が来ました。

式場を探すには、当然順序があり大きな項目をまたクリアする必要がありました。

裕子の親への挨拶でした、これを越えないと式場探しもありえないのです。

緊張のレベルが徐々に増していました、いつも裕子の家へ行く道程がとても辛く吐き気がしています。

そしてやっとの思いで裕子の家に着いて呼び鈴を鳴らすと、裕子が綺麗なかっこをして出てきて“ニッ”と笑いました。私には、とてもそれを返す余裕が無く、リビングに行くと裕子のお父さんとお母さんがいました。

リビングのテーブルにはいつもは無い花が真ん中に置いてあり、お父さんが指示する席に着くと裕子が私の隣に座り、お母さんもお父さんの隣に座りました。少しの沈黙があり、私はもう帰りたいぐらい緊張してお父さんの顔を見て言ったのでした。

『今日は突然申し訳ございません。5年ほど前から裕子さんとお付き合いさせてもらっているのですが、昨年12月に会社から5月にロンドン転勤を命ぜられまして、最初は1人で行って1年か2年後に今日のような形をとらせていただく事を考えていたのですが、転勤の時期が近づくにつれて私にとって裕子さんが、かけがえのない人になっていて、近くに居ない事が考えられなくなってしまいました。どうか裕子さんと結婚させて頂き、一緒にロンドンに行かせて頂けないでしょうか。』と私が頭を下げると、裕子も『お願いします』と言って頭を下げていました。

お父さんは『はい、わかりました。幸せにしてやって下さい』と言ってくれました。

お母さんからは、『良かったね』と言ってもらうと、裕子が『お父さん、お母さんありがとう、じゃあ、式場探してくるね』と言って立ち上がりました。

私は汗だくになり精魂使い果たしました、この時ほど次ぎ生まれる時は女がいいと思ったことはありませんでした。

そしてすぐに婚約指輪と結婚指輪を購入し結納を行い、式の日程を2月24日に決め、あとは式に呼ぶ人のリストと案内状の宛名書き以外は式場側の担当が段取りをしてくれました、ここまで来ると裕子は会社を退職するために忙しくなり、式が近づくにつれ、会うペースが1ヶ月に1回くらいになっていました。



結婚式当日は、なぜか裕子と久しぶりに会う感じがしましたが、ほどほど緊張し、泣いて、笑って、冷やかされて終わり、新婚旅行は飛行機の関係で成田のホテルに1泊してからカナダのバンクバーで9日間ゆっくりスキーをして帰って来たのでした。

そしてお土産を持って会社に行くと、何か会社の様子が何かおかしくなっていたのでした。



夢が終わる時

この年はどこの会社も業績が悪くなっていて、事業縮小や倒産していく会社が多くなりはじめていました、私の会社も出向先の業績が悪くなって自社に帰って来る社員が本社に多くなっていました。

でも、私のいる会社は親会社があるので大丈夫と何の根拠も無い理由で安心していたのは間違いありませんでした。

ところが、東京の事務所を閉鎖し千葉に移る事になったのです、これにより通勤に2時間以上かかるようになっていました。

ただ、ロンドンに行くまでの後数ヶ月の我慢と思い、転勤に向けてロンドンとのやり取りを進めていました。

でもこの時、既に会社に見切り付けて退職する物が少しずつ増えていたのでした。また、上の物だけにある情報が流れたようで、社員の何人かが親会社に引き抜かれたようでした。

私はそんなことはどうでも良く、とにかくロンドンに行くことだけを最優先にしていたのでしたが、転勤の時期が1ヶ月先送りになり、6月のボーナスは振り込まれず、7月の頭にはロンドンとの連絡も取れなくなり、25日の給料も振り込まれませんでした。



世の中でバブルと言う大きな泡がはじけたのでした。そしてその勢いで私の居る会社吹き飛んでいきました。

社長から説明があり、このまま少し待てば親会社に行くか、他の会社に吸収されて行く道があると話してくれました。

ロンドンの事は一言も無く、社長を含め、みんな自分達の明日を心配する方が先でした。



私は自分の荷物をまとめて家へと向かっていました、全てを転勤に向けて結婚までして準備を整えて、海外での生活を夢見て一生懸命になっていたのが馬鹿らしくなっていました。

結婚式で社長の言った言葉を思い出すと腹が立ち、このままどこかに消えてしまいたい気分でした。

家に帰り、これからのことを考えようとしたのですが、嫌でも目に入る、海外すぐに行けるようにと用意した大きなスーツケースと荷物山があり、自分が今日まで何をしていたのか考えると悲しくなってきました。

まず自分の中で整理をつける必要があるのですが、裕子の親や親戚一同の顔が『外国でも頑張れ』や『頑張ってね』と次から次へと出てきて、整理など出来ず、その日は、裕子に話すことは出来ませんでした。

裕子も仕事はせずに私の両親と同居して、1ヶ月2ヶ月転勤が伸びたことで、精神的にもこの生活に疲れてきていたのでしょう、色々なところがギクシャクし始めていました。

私はこれ以上、悩みが増えるとおかしくなりそうだったため、海外転勤の事をあきらめきれ無い部分もありましたが、私が次のことを考えなければ何も進まず、もうこれ以上ロンドンを夢見てもどうしようもない事を自分に言い聞かせました。



そして裕子に話し、次に自分の親と裕子の親に話し、親との同居も限界だったため、私達は家を出る事にしました。今はとにかく静かにしていないと、私の心は折れてしまいそうでした。

そしてすぐに不動産屋をまわり、手ごろな2DKのアパートを見つけて、引越しをしたのでした。お互い一人暮らしをしていなかったため、家財道具は何も無く、悲しい事に引越しの荷物で一番大きかったのが、海外を行き来するのに大きい方がいいと言われて買った2つのスーツケースでした。

結婚して5ヶ月も経って、やっと2人での生活がスタートしたのでした、生活する家財道具は、ほとんど無かったのですが、二人だけの静な生活を始めることが出来ました。

ただ、少しの間、何もする気にならず、失業保険で生活し、自分には何が出来るのか考えながら、今までと別な仕事を考えていました。

そんな暮しでも、裕子は私を優しく見守ってくれました。



でも救われたのは、実家を出る時に鏑谷さんに預けたA35とMk-1でした。あの2台を見ているとそれまでの嫌な事は忘れさせてくれました、ここからはじめようと思いました。

裕子と二人で鏑谷さんの手伝いをして小遣いを稼いで食いつないでいると、以前同じ場所で働いていた三澤さんと言う人から、私の事を心配して連絡をくれたのでした。

そして三澤さんの奥さんがいる会社でシステムエンジニアを欲しがっていると言うことで、私の話しをしたところ是非来てほしいと言うことだそうで、1度会ってみないか?との話しでした。

 でも、私はコンピューターを考えることも嫌だったので、丁重にお断りしたのですが、『まぁちょっと考えていてよ』で、電話を切られてしまいました。



そしてその数日後に、また三澤さんから連絡があり、コンピューター関係の仕事をする気が無いと、再度丁重に断ったのですが、『話しちゃったから、会うだけ会ってよ』と押し切られてしまいました。面接の時間と場所を指定されて、当日は久しぶりにスーツを着て、教えられた住所に行きました。

受付で名前を言うと応接室に通され、待っていると、名刺を持って部長らしき人が入ってきました。私は名刺を受け取って今までの事を話していると、なぜか総務部長まで来て、具体的に話しが始まって、いつから来られる?と、ここでも押し切られてしまいました。

晴れてなのか、転職していました、裕子も顔には出しませんでしたが、安心しているようでした。

転職した会社は、出向は無く私は始めて自分の机をもらうことが出来ました、そしてまた大手の子会社ですが、今度は危機感を持ってローンでは物を買わずに貯金をするようにしました。

また、給料は以前より大夫多くなり、徐々に生活が楽になり、ここに居座ることが自然になっていきました。

こうして私の転職先は行き追いで決まった割には、以前居た会社の転職組の中でも成功方だったのではないでしょうか、次第に安定した生活が送れるようになって、贅沢にも毎年ご褒美ハワイ旅行を目標にして働きました。



この時まだ、私達の大事なA35とMk-1は鏑谷さんの所に預けたままになっていました。



親とは

年1回のハワイ旅行と以前のように休日はA35とMk-1でイベントやツーリングに参加して楽しんでいたところ、裕子が妊娠したのでした。

もう子供が出来てもいいと思っていましたが、実際できてみると、自分が親になる感覚がわからずに、自分が親になれるのか?今までと同じ生活が出来るのか?と自問自答を繰り返していました。

ただ、そんな事は関係無く裕子のお腹は時間と共に大きくなっていったのでした。

そして予定日が2月だったため、1月に裕子は実家に帰り、実家の近くの病院に通うことになりました。

私も1月の終わりには、裕子の実家に近い、自分の実家から会社に通い始めました。

そして、いよいよ出産予定日になったのですが、陣痛が来ないため裕子は念のため入院する事になりました。次の日は会社を休んで、病院に行く予定にしていました。

次の日、朝病院に行こうと準備をしていると1本の電話が鳴り、電話に出ると裕子でした。

『ごめんなさい・・・・・赤ちゃんが、お腹の中で死んじゃった・・・・・・』裕子が何を言っているのかわかりません、わかろうとしていなかったのかもしれません。

私は、『えっ』としか言えずにいると、裕子は『お医者さんが赤ちゃんの心臓の音が聞こえないって』、私『今から病院に行くから』、裕子『わかった』

病院に行くまでどうやって行ったのか何を喋ったのか覚えていません。

病院に着くと、裕子が『ごめんなさい』私は、何をすればいいのか、何を言っていいのかわからずに『お医者さんの話しを聞こう』と言っていました。

ただ、話しを聞いても原因不明、原因不明・・・・・・・医者にして見ればいつもの事のようにしゃべっているようで、私も聞いていても頭に入って行きません。

この時、私は自分の子供と言う感覚がわからず、悲しくも無く、だったら早く裕子のお腹から出して欲しいと思い医者にお願いをしました。

その後すぐに裕子には陣痛を早める点滴が打たれて、苦しみ出したのでした。

裕子はどんどん痛みを増しているようで、私は、まだ出すことが出来ないのか、腹立たしくなっていました。

そして時間が来たようで分娩室に入って行きました。

多分1時間か2時間だったと思います。裕子のお腹から苦しみの元が取り出されたのでした。

私は裕子が大丈夫なのを見て安心したのでしたが、看護士に裕子のお腹から出した物に会うために、うす暗い部屋に案内されたのでした。

部屋に入るとそこには大人用のベッドがあり、その真ん中に白い布を掛けられた、その物があったのでした。私はこの時始めて裕子を苦しめていたのは、物では無く自分達の子供だった事にはじめて気付いたのです。

私は声を出すことが出来ず、嗚咽となり涙だけがこぼれました。やっと出た言葉は『なんで・・・』でした。

この時私は親なのにどうやって抱いていいのかわからないまま泣いていました。看護士が赤ちゃんを抱き上げてくれて私が受け取ると、まだ裕子の体温を保ったまま暖かく、まるで生きているようでした。



外は今年初めての雪が降り始めていました。



泣いた顔がわからないようにして裕子が居る部屋に戻りました。医者から母親には赤ちゃんに会わせないほうがいいと言われていました。私もそう思い赤ちゃんに会った事は言わずにいました。



外はもうすっかり雪景色になっていました。



次の日、裕子の作った産着を着せてもう一度父親として抱きしめて心の中で“ごめんね”と言って、小さな棺桶に入れました。火葬手続きを行い、業者が持って行き、翌日骨壷に入って帰って来るそうです。

その手続きが終わり、何も無かったように裕子の居る部屋に行ったのですが、裕子は何かを察したのか突然、私を見て『赤ちゃんに会いたい、赤ちゃんに会わせて』と泣き出したのです。

私も今日で最後だからと一瞬思ったのですが、やはり昨日の私以上に悲しむでしょう、きっと会ったら立ち直ることが出来なくなると思い『会っちゃ駄目だ、もう会うことは出来ない』と言い聞かせました。

次の日からは、正常に分娩できて幸せそうにしている、お母さん達と一緒の診察でした。

何も特別扱いはされずに授乳の時間だけ部屋に戻って来るので、なるべく私も一緒にいるようにしていました。



そして裕子は1週間で退院となりました、辛い1週間でした。

赤ちゃんには“理奈”と名付けました。

帰りは小さな骨壷に入った理奈と一緒でした。



全てを過去に

あれから3年、私達は必死になって働き、何かのきっかけにしようと考えたわけではなかったのですが、無理をして中古のマンションを購入したのでした。

始めて持った自分の家は二人暮しにしては部屋数も多く一部屋は私の趣味の部屋にしてもらいました。

そしてまた私達はA35とMk-1で楽しむ事にしました。

またここから出なおします、ここからは何度でも出なおせるのでした。

今度は鏑谷さんの勧めで本格的にレースをやってみる事にしました。

何か目標があった方がいいとの事で、毎年1回行われる12時間耐久レースに二人で出る事にしたのでした。

やると決めてからは、週末は車のメンテナンスか、練習走行に明け暮れて、裕子も私も日曜日の夜はオイルや、何かいろんな物で真っ黒になって家に帰っていました。

サーキットの走行も慣れてきていたのでしたが、なぜか練習走行のタイムがA35よりMk-1の方が良く、そして私より裕子の方が、タイムが良いのです。

練習走行をやるたびに鏑谷さんが弄ってくれているのもあったのですが、それ以上にタイムがどんどん良くなって行きました。

最初、1周1分を切る事が出来なかったのですが、目標のレースまで2ヶ月を切るころには2人とも58秒台で走る事が出来ました。走っていると以前の事が胸のどこかにあっても、頭からはすっかり消すことが出来ました。

私達は何かを吹っ切ろうとしているかのように、走りました。その中でも裕子の走りには目を見張る物がありました。

サポートに回ってくれた鏑谷さんもその事には気付いていて、まだまだタイムアップの余地があると考えて、裕子の注文に合わせて車の調整をしてくれたのでした。

そしてレースの2ヶ月前にリザルトが送られて来て、見ると、なんと参加台数106台、土曜日の予選で40台にさせられます。

そしてその予選突破予想タイムはなんと1周57秒です。私のベストタイムが58秒8で裕子が57秒6です。このままでは多分予選落ちです。

どうにかして2秒近く縮める方法を考えなければなりません。

すると裕子が突然Mk-1ではなくA35で出ようと言い出したのでした。

私達が登録した車はKaburayaSpecialとしか出していなかったので、同じA型エンジンのA35でも問題は無いはずでしたが、その時A35はMk-1より1秒以上タイムが悪かったのでした。

ただFRのA35はコーナーでリアが流れてタイムロスしていましたが、ストレートはMk-1よりも速かったのです。

それまで、エンジンをチューニングして全開で走るにはFFのMk-1の方がコントロールしやすく安全にタイムを出せると言うことでMk-1にしたのでしたが、今日までの走りで、裕子には十分FR車をコントロールする技術が有ることと、まだMk-1のエンジンにはマージンを残してチューニングしていることを考えると、このレースはミニが多い中で同じような改造をして、同じような走り方で勝負するよりも、FRのA35で違った走りをした方がタイムアップ出来る可能性が高いと考えました。

ただ、時間が後2ヶ月弱しかありません。練習走行出来る回数も限られて出来て3回その間に車のセッティングとA35に慣れて、57秒以内で走る必要が有りました。

悩んでいると鏑谷さんの方から、『A35のボディー補強と軽量化、フライホイールの加工、ファイナルギアの変更、ブレーキ・サスの強化、タイヤサイズの変更でコーナーでは今までのように流れ無いようにセッティングして、1秒縮めさせるから、あとはお前達の体力とテクニックで何とかしてくれ』と言われました。

私達はここでA35にかける事に決めましました。

裕子と私は体力作りと体重を落とすために朝晩のランニングを行い、2週間で2kgづつ落とすことにしました。ヘルメットも大枚叩いてカーボンファイバー製にして軽量化と疲れないようにしました。

あと、サーキット走行はどう調整しても仕事の都合で2回しか取れませんでしたが、あと1日会社を休んで、3回走ることにしました。この3回で1周56秒台を目指します、きっと出ます。



そして1回目の練習走行日前日までに、鏑谷さんは夜遅くまでA35を弄ってくれて、最高の車に仕上げてくれました。

私達はランニングをして体重を落として体調を整え、Mk-1でベストタイムを出した時の画像を、手足を動かしながら1日2回は見て、イメージトレーニングもしました。



とうとう第1回目の練習走行当日、裕子は体調を崩していました。ただ、走り出したら体の不調など感じさせないタイムを出してきました、3本目に57秒2が出ました。

ただ、その日はそれ以上のタイムを出せずに戻ってきてトイレに駆け込んでいました。ここで“大丈夫”なんて無駄な声など掛けず、次に私が走り出しました。

以前に比べてレスポンスがいいエンジンになっています。やはりFFとはコーナーのラインも違ってきますし、コーナーでも以前よりアクセルが踏めます。

私は5本目でベストタイムを出しました、57秒フラットでした。二人とも自分達のベストタイムは更新していました。車の変更は正解でした。これであと2回の練習でタイムをもっと縮めていきます。

帰るころには、裕子の体調も回復し、その日は車を変更して、いいタイムが出せた事を祝して、鏑谷さんのガレージで今日のベストタイムの動画を見ながら祝杯をあげました。

色々チェックポイントを確認して、裕子は次ぎの練習走行で私のタイムを抜くと断言し、私は鏑谷さんにもう少しコーナーでアクセルを踏みたい事とブレーキペダルの位置をアクセルよりにすることをリクエストしました。

朝晩のランニングとイメージトレーニングは毎日やって、第2回目の練習走行日、やはり裕子は胃の調子が悪いようです。体重も前回より落ちています。

3人ともこのレースにかける一つの理由がそうさせているのでしょう、無理はしないようにと声をかけてピットを出て行きました。

1周目はタイヤを暖めて、2周目か3周目からタイムアタックを始めます。裕子は1周目の最終コーナーを全開で立ち上がってきました。このままタイムアタックを始める合図を送ってきました。

KaburayaSpecialはいい音をさせてストレートを駆け抜けて行きました。

私は時計をじっと見続けて、ブレーキング、シフトダウン、ステアリング、アクセルオンと頭の中でイメージしていると、それより少し早く最終コーナーに入って来る音が聞こえて来ました、明らかにコーナーを立ち上がってくる音が違います。

そしてラインを越えたタイムは56秒4!!目を疑いました、鏑谷さんもガッツポーズをしています。

裕子は次の週もアタックするようです。私はもう一度コースを走っているところをイメージしていたのですが、やはり最終コーナーに入ってくるタイムが速いのです、それも今まで聞いた事の無い高音を立てて最終コーナーを立ち上がってきました、そしてラインを越えたと同時にマフラーから白煙を出しました。エンジンブローです。ただ時計は55秒8!!で止まっていました。

もうこれ以上は、今のエンジンの限界だったのでしょう。鏑谷さんと私は笑顔でA35を押してパドックに入れ、その日はMk-1でA35をイメージして走り、終了しました。

A35のエンジンは壊れてしまいましたが、55秒9は、今回走るクラスのベストタイムです。後一回練習走行日がありますが、予選は当然、裕子に走ってもらう事に決めました。

鏑谷さんはA35のエンジンを降ろして見たところコンロッドとメタルがキズだらけでピストンとピストンリングが欠けていました。多分8000回転までと言っていたにもかかわらず、9000回転を超えてまわしたのだと思います。

後で、ベストタイムを出した時の動画を見ると、最終コーナー途中でシフトアップランプが点いたまま、コーナー出口まで3速を引っ張りシフトアップしているのがわかりました。

鏑谷さんはとりあえずMk-1のエンジンをA35に積み変えました。もちろん秘密のチューニングは施してです。

最後の練習走行後の土曜は予選で日曜日は本戦です。

本戦の2人で12時間は体力的に問題ないところまで持ってきていました。後は最後の練習走行でデータを取り、予選にかける事にします。

いよいよ最後の練習走行日です。



最終調整なので、コンスタントに57秒前半をキープ出来るように走る事にして、タイヤの消耗確認、燃費、ドライバー交代の方法を確認する事にしました。

裕子はすっかり56秒以内をキープする事ができていました。タイヤの消耗も激しくありません。私はタイムが安定せずに、57秒から58秒で1度スピンをしてしまいました。

ここまで来たら車を壊さないようにして、データを取り終了しました。



予選のタイヤはタイムアタックの2周にかけるために、ソフトコンパウンドを使う事にしました。そしてクリアラップを取るために予選は最初1周を走り、すぐにピットに戻りモニターを確認しながら予選終了10分前までに再度出走し、アウトラップ1周後の2周にかけます、この時は9,000回転まで回して走ります。鏑谷さんがこの時のために2周だけ9,000回転まで回るエンジンに仕上げてくれたのでした。



とうとう予選当日です。この日までの2日間は頭の中にコースが何回も出てきて、いつの間にか手と足が動いてしまい、仕事には集中することができませんでした。

裕子も相変わらず胃が痛そうにしています、57秒を目指すようにしてから多分5kgは落ちていると思います。

ただ、目標としていたレースが今日と明日で終わります。出来ることは全てやりました。何としても本戦に出て完走することで、今まで自分達に起きた事を過去にする事が出来るような気がしていました。

パドック内もあわただしくなって来て、裕子もレーシングスーツに着替えて準備が出来たようです。突然、裕子がカバンから包みを出しました、それを大事そうにパドックのコース側の隅に置き包みを開けました、理奈でした。裕子は手を合わせてからヘルメットとグローブを付けて、鏑谷さんがドアを開けてくれたKaburayaSpecialに滑り込みました。

予選開始の放送が聞こえてきました。私は裕子に、わかっていることをもう一度言いました。

『コースに出たらすぐに戻ってくること』裕子はうなずき、スターターのボタンを押してエンジンを掛けました。ピット前に並びだし1台1台コースに出て行きます。

裕子もコースに出ました、心地よいレーシングエンジンの音が聞こえてきます予定通り裕子がピットレーンに入ってピット前に戻ってきました。裕子は一度降りてヘルメットはつけたまま理奈の前に椅子を置き座りました。



モニターのタイムが凄い勢いで更新されています。今のところトップが57秒9で20位が59秒7です。トップ10のタイムが56秒台になったところで、10台近くピットに戻り始めました、ラスト10分までにはまだ早かったのですが、私と鏑谷さんとで話し、クリアラップの取れそうなところで裕子を出す事にしました。

裕子に準備をさせKaburayaSpecialの中で待たせて、私と鏑谷さんでコースを見て、ここだ、というところで“GO!!”を出しました。

裕子はピットレーンをエキゾースト音高らかにコースに出ると、気持ち良さそうに加速して行きました。そしてアウトラップの最終コーナーを8,000回転近く使って立ち上がって来ました。タイムアタック開始の合図をこちらに送り、ラインを越えて行きました。

戻って来るのを見計らって、鏑谷さんがストップウォッチを見て数え出しました、50・51・52・53・54・55、最終コーナーを立ち上がってきた裕子のタイムは56秒9です。トップタイムとコンマ1秒差です。モニターの2番目に表示されました。すると、ピットに戻っていた各チームがあわただしくなって来ました。

裕子の本当の勝負はこの週です、すでにタイムアタックに入っています。

また鏑谷さんがストップウォッチを握って数え出しました、50・51・52・53秒!!最終コーナーを練習の時と同じ高音を響かせて立ち上がってきました、すこしアウトに膨らんでしまいましたが、排気音は途切れませんアクセルは踏み続けていました。スタートライン越え時計を見ると55秒7!!予選1位です。それもA型エンジンのコースレコードです!!当然モニターの一番上に表示されました。鏑谷さんと私は抱きあってからバンザイを何度も繰り返していました。

すると、テレビモニターに土煙が映し出され、良く見ていると、土煙が消え始めタイヤバリアに突っ込んだKaburayaSpecialが、見えてきたのです、すぐにペースカーが入り予選を5分残して終了となりました。

私と鏑谷さんはレッカー車に乗らせてもらい、KaburayaSpecialの所まで行くと裕子はヘルメットを取ってタイヤバリアに座っていました。

『けがは?』と聞くと『何処も痛くないけど、ブレーキが全く効かなくて』と少し興奮気味でした。多分ハードブレーキングでフェードを起こしたんだと思ったのですが、ノーブレーキでタイヤバリアに突っ込んで、体に何も無かった事に私はホットしました。

一応、オフィシャルから病院に行って検査を受けてくださいといわれて、裕子は救急車に乗って行きました。

KaburayaSpecialは、ちょっと見ただけでも酷い壊れ方をしているのがわかりましたが、鏑谷さんが下を覗いて見て前後の足が曲がってしまっているので、明日の本戦までに間に合わないとのことでした。

私達の夏が終わりました。でも、モニターの一番上に55秒7が輝いていました。

鏑谷さんのガレージに運ばれたKaburayaSpecialはタイヤが全て別な方向を向いていましたが、屋根には予選でトップタイムを出した記念の盾が置かれていました。

そして、何よりびっくりした事に裕子はオフィシャルに連れて行かれた病院で妊娠している事がわかったのでした・・・・・・。



誕生

私は親になる事に対して何の不安も持たずに、裕子のお腹が大きくなるのを見守りました。

そして予定日の前日、私は会社を休んで裕子と近くのチューリップ畑に散歩に出かけました。

すると、裕子がお腹が張ると言い出したので、すぐに産婦人科に連れて行き取り会えず入院する事にしました。

ただ、今日は生まれそうに無いと言っていたので、私は早めに家に帰り、9時からの映画を見ようと、風呂に入っていたところに電話が掛かってきたのでした。電話に出ると病院の看護士さんからで、まだ時間はかかりますが、今日中に生まれますので、気を付けて早めに来てくださいとの事でした。

病院に行って見ると裕子が苦しんでいました。1時間ぐらい付き添って腰をさすっていると裕子が呼ばれて、看護士に付き添われて分娩室に歩いて入って行きました。

中でのやり取りが少し聞こえてきたのですが、中に入って1時間ぐらいで産声が聞こえてきたのでした。そして私が呼ばれ中に入ると生まれたばかりの赤ちゃんと疲れ果てた顔をした裕子がいました。赤ちゃんは産湯に浸かると両手を広げて泣いていました。裕子があの耐久レース予選でトップタイムを出して事故を起こしてから8ヶ月後の事でした。

とても幸せな時間でした、そして何よりも退院する時は3人でした。



名前は私が大好きだったプロレーサーの名前をもらい“亮(りょう)”と名付けました。

亮は夜泣きがひどかったのですが、人見知りをせずに誰に預けても大丈夫な子でした。

私はというと週末に時間が出来るとA35を直すために、鏑谷さんの所に行っていました。

少し経つと裕子と亮と私の3人で鏑谷さんの所に行くようになりました。

先にMk-1のエンジンの積み込みをおこない走る事が出来るようにして、伊豆や箱根を3人で走り回っていたのですが、裕子の走りは相変わらず切れが良く、箱根などで国産車を追い回すのですが、亮が怖がってしまい、裕子が運転をすると泣くようになってしまったのです。

まぁこれも少しずつ慣らして行くしか無いでしょう。

A35のエンジンは出来上がりつつあったのですがフレームの状態は酷く結局サブフレームのマウントまで、曲がってしまったため、まだまだ時間がかかりそうですが、時間を楽しむ余裕がありました。

こうして、また亮を含めた自分達の新しいリズムを作り出していました。



裕子の母親

裕子の母親は、まだ裕子と私が結婚する前に区の健康診断で偶然C型肝炎になっていることがわかったのでしたが、この病気は進行が遅いために気になっていましたが、元気な姿を見せてくれていたのかもしれません、病気のことは忘れていました。

ところが徐々に『疲れた』という言葉が多くなり、趣味の庭いじり以外は外に出なくなっていました。

そして裕子の父親から裕子の母親が末期のガンになっていることを聞き、それからは時間を作っては、孫の顔を見せに行くようにしていました。

裕子の父親の献身的な看病により、一時は外を散歩するぐらいになり、孫と公園で遊ぶ姿も見られ、一見回復したように見えたのですが、またすぐに寝たきりになってしまい、亮が2歳になってすぐに亡くなったのでした。享年60歳まだこれからという歳でした。

お葬式の時、2歳の亮には死という物が解らず、棺桶に入った裕子の母親を起こそうとしている姿が涙を誘いました。

そして、納骨が終わってから、裕子の実家で父親から自分も初期のガンである事を伝えられて、私達は言葉を失いました。

裕子の父親は既に退職しており、現役時代は単身赴任していた事もあって、身の回りのことは全て自分で出来ました。

そんな事もあって、母親の献身的な看病も出来たのだと思いますが、なぜ今度は父親なのでしょう。神は居ないのでしょうか、神がいるならなぜそんなに試練を与えるのでしょうか。

ただ、裕子の父親は人に泣き言を言うような人ではなかったため、それから1年2年と経っていく中で何も話しが無く、聞いても調子がいいとか、新しい治療をしている等、前向きな言葉ばかりだったため、裕子とは治ってしまったのでは無いかと冗談をいっていました。



そして裕子の友人が翌日結婚式のため、準備をしていると裕子の姉から電話が掛かってきたのでした。電話の内容は裕子の父親の様子がおかしいとの事でした。



父親の介護

裕子はすぐに電話すると、お酒を飲まない父親が酔っているような感じで、何を言っているのか解らないほど、ろれつが回っていないのです。再度、姉に電話をしてから救急車を呼びました。

私達もすぐに搬送先の病院に向かったのでした。病院に着くと裕子の兄が先に着いていて病状を聞くと脳梗塞と言うことでした。

今、集中治療室に入っていて大勢で見に行くのはまずいとの事だったので、裕子とお兄さんだけで、父親に会いに行き、その後にお姉さんが来て入って行きました。

裕子達が戻って来たのは既に朝方でした。

裕子の実家に戻って、これからについての相談をしていたのでしたが、裕子からのお願いで少しの間、私達がここに居てお父さんの面倒を見たいとのことでした。

私はここからの通勤は可能でしたし、亮もまだ幼稚園に行っていなかったので、問題無い事を伝え、早速とりあえず身の回りの物をここに持ってくることにしたのでした。

そして裕子の実家での生活が始まったのでした。

ここには、ガレージも有りMk-1とA35を持ってくることが出来たのですが、週末は病院に行く必要があったため、車を弄ることができなくなってしまったのでした。

父親の脳梗塞の症状は安定したのでしたが、後遺症により痴呆症となってしまい脳外科の治療はこれ以上無く、リハビリ治療を行うために退院する事になったのでした。

そして、脳梗塞になる前まで通っていた病院にリハビリとガンの治療のために通院する事になったのでした。

ここで、私達の生活が一変したのでした、父親は食事の時間になると食卓につきじっと待ち、トイレは夜も昼も10分から20分おきになり寝る事もままなら無い生活が続きました。

私は次第に何でも無い事にイライラし始めていました、ただ裕子が看病している姿を見ると、もどかしい気持ちで悲しくなるのでした。

たまにお兄さんやお姉さんが交代してくれて、私達は自分の家に帰ったのでしたが、こんな生活がいつまで続くのか考え始め出していました。

そんな時に、息子の亮が幼稚園に行くようになり、家の中を明るくしてくれたのでしたが、亮が自分で箸を使うことやトイレが出来るようになって行くにつれて、父親は徐々に自分で出来る事が少なくなっていきました。



そんな生活が1年経とうとした時、ほぼ寝たきりとなってしまった、父親が突然息を引き取ったのでした。

この時の本当の気持ちは、“やっと終わった”でしたが、お通夜、告別式、納骨と時間が経つにつれ、もっとやってあげられることがあったのでは無いかとか、自分達が見ていなかったら、もっと生きる事が出来たのでは無いかと反省をして行ったのでした。

49日が過ぎて父親の私物の整理をしていたところ、脳梗塞で倒れる前にどこか遠くに行く計画をしていたことや、保険や貯金の全てがまとめられた書類や、遺言書らしき書類も見つかったのでした。

裕子は兄弟呼び、父親の言う通りに分け合って、私達は自分のマンションに帰ることにしていることを報告したのでした。

ところが、その場に私も呼び出されて、お姉さんとお兄さんの方からこの家を譲り受けてくれないかとの申し出がありました。

裕子と私はマンションのローンや亮のこれからかかるお金を考えた末、裕子の実家を有難く譲り受け、ほぼ10年住んだマンションを手放す事にしたのでした。



ガレージ

そして、家のガレージに動かないA35と裕子のMk-1が並んだのでした。

私のレストア生活も復活したのでしたが、少し前から腰の具合が悪く、昔より根気が続かない状態になっていました。

でもその年には、レース用としてA35を走らせるところまで直す事が出来たのでした。私達は亮が生まれる前のように、またレース活動を再会したのでしたが、なぜか裕子と私とでクラッチのフィーリングが合わなくなっていました。どちらかと言うと私の方がレースのたびにクラッチを弄っていたので、裕子はそれに合わせてくれました。

さすが裕子はA型エンジンのコースレコードホルダーです。いい音をさせてストレートを駆け抜けて行きます。亮も大喜びでした。

ただ、私の腰痛は酷く腰を真っ直ぐにする事が出来なくなってしまったので、整体に通っていたのですが、自分でもわかっていたのですが、運動不足を指摘されていました。

そしてまた耐久レースを目標に出るための準備を前回より早くしてコンスタントにタイムアップしていたところ、また裕子の具合が悪くなり病院に行ったのでした。

すると、裕子が診察室からでてきて、亮に“亮君はお兄ちゃんになるんだよ”と報告をしたところ大喜びでした。

また、レースにでることが出来なくなりましたが、変えがたい物なので、諦めもつきました。



腰痛を抱えながらでしたが、子供が出来た事で私はよりいっそう頑張りました。

裕子は大きなお腹で、幼稚園の役員と、裕子の地元だったので自治会の役員も私に変わってやっていました。

裕子お腹が段々大きくなり動くことが辛い状態になってきました。予定日近くでお腹の張りが出てきたため、病院に裕子を連れて行くと、医者から入院して待った方がいいと言うことだったので、面会時間ギリギリまで亮と一緒にいて家へ帰りました。

“また夜かな”と思い待ったのでしたが、電話は掛かってきませんでした。

そして朝、裕子が苦しそうに電話があり『もうすぐ生まれそうだから、7時に亮を幼稚園に預けて病院に来て』との連絡がありました。すぐに亮を起こして朝食を食べさせて、幼稚園の準備をさせて幼稚園に送った後、病院に行ったのでした。

家から20分ほど離れた病院だったのですが、病院に着いて看護士に呼ばれて行った時には裕子と赤ちゃんが既に居ました。今回は出産に間に合いませんでした。

裕子は、また何かをやり遂げた顔をしていましたが、疲れているようでした。



そして、その赤ちゃんは他の赤ちゃんと違い、涼しげでスットした顔をしていました。

鏑谷さんに生まれた事を報告したところ、『君の奥さんはレースをするたびに妊娠するのだね』と言われました。確かに私もそう思いました。



何はともあれ無事に生まれた事をみんなで喜び、名前は亮と考えることにしました。

私の父親も私も亮も漢字1文字で、ひらがな読みで3文字だったので、漢字1文字にしようと決めました。すると亮が『貧乏・大臣・大大臣でみんな貧乏だから大大臣にしたい』と言い出し、それならば、ひらがな読みは2文字にしようと決め、後は次の日にしたのでした。

次の日、病院に行くと裕子に『名前はまだなの、名前が付いていないのうちの子だけだよ』と言われて、漢字1文字で読みが2文字までは決めたと言って、亮を幼稚園に迎に行きました。

そして病院で何か良いヒントとなる物が無いかと周りを見回すと待合室に有ったのは、ボロボロのドクタースランプアラレちゃん、見ていると亮が『これかわいいよ』と言ったのが、ガッちゃんでした。ただガッちゃんの本名はガジラ、この名前はさすがに付けられません。

そして考えたのが“ガク”でした、漢字はやはり横にあった岳人と言う山の雑誌が置いてありこれに決めました。“岳”中々です。すぐに裕子へ言いに行くと、裕子も気にいってくれました。

もう次の日には呼び名が“ガッちゃん”になっていました。ただ亮だけは“ガジラ”と読んでいました。

こうして、私達家族は4人となったのです。



とんでもない名前の付け方をしてしまいましたが、“ガッちゃん”がいつの間にか縮まり“ガッチ”とみんなに呼ばれるようになりました。

ガッチがもうすぐ1歳になるという時、私は腰痛がひどくなり整体医院や針灸医院、整形外科に通うまでになっていました。



足の痛み

ある朝、左足に何と言っていいのかわからない痛みで起きたのでした。それは、今まで経験したことの無い痛みが左足全体にあって、あえて言うならば、太ももを紐で縛られて血が流れないようになって何時間か経った状態のような痛みでした。

裕子に整形外科が始まる時間まで待つように言われたのですが、どのような姿勢をとっても痛さが変わらず脂汗をかいて待ちました、そして時間になって医者に行くとすぐにMRIでの撮影になったのですが、姿勢を固定していなければならず、約20分間は生きている心地がせず全身から汗が噴き出ました。

MRIの撮影も終わり診察を待っている時間も痛みは続きました。

診察室から名前を呼ばれて中に入ると、MRIの撮影した画像がありました。医者からは腰椎の4、5、6番の間から椎間板が飛び出していて、脊髄を圧迫しているために、足が痛くなっているとの事、今すぐ痛みを取りたいならばブロック注射を打つのが早いと言われてすぐにお願いしたのでした。

でも、その日は予約がいっぱいで、どうにもならないようだったのですが、私の痛がっている姿を見てどうにか予約を入れてくれたのでした。ただ、その時ブロック注射と言う治療を知らずに、治療を受けることにしていました。ただ、治療法を聞いていたら痛みを我慢していたかもしれません。

痛みの我慢も、痛み始めてから12時間は経っていて、大夫慣れてきたのでしたが、ちょっとでも足のことを考えると吐き気がするほど痛いのでした。

やっとブロック注射の順番がまわってきて、部屋に入るとそこには手術台のような台があり、そ

の台の横で背中の開いた手術着に着替えさせてもらいました。台の周りには4人はいたと思います、台の上にのり背中を丸めて背骨の間が開くような姿勢にされ、緊張がピークに達して足の激痛も少し和らいだような気がしました。

最初に背中全体を消毒されて、次に『ちょっと痛いですよ』の後に、ちょっとどころでは無かったのですが、管を刺すための麻酔注射を打たれ感覚が無くなった事を確認して、背中に何かを刺しているようなのですが、痛さは無く体を押されている感覚が、何かとてつもない太さ物を刺している感じがしています。

すると医者が『ここですか?』と言って来ました。私は何を言っているのかわからずにいると、看護士が『今痛いところを探しているので、そこにきたら教えてください』と、痛くは無いのですが、背中に何かを刺している重さを感じていた時に、突然左足がかってに“ビクッ”と動き感電したような痛みが走りました。医者が『ここですね』と何かするたびに激痛が走る。私は『そ、そこです』と言うと、すぐに何か腰から下が暖かくなって来ました。

そして今までの痛みが嘘のように無くなったのでした。これで全て治ってしまったかと思ったのですが、体を起こそうとしても足が動かないのです、それも徐々に右足も感覚が無くなって来ました。

車椅子に乗せられて、手術室から自分の荷物を持って出たのですが、もう両足とも感覚がありません。

看護士から『1時間ぐらいすると感覚が戻ってくるので、このベッドで休んでいて下さい』と言われ、裕子も迎に来てくれて待っていたのですが1時間後ぐらいに右足の感覚は戻ってきたのですが、2時間経っても左足の感覚が戻りません。痛みと共に足の感覚が無くなってしまったのです。

ここで、ブロック注射という治療を知ったのですが、医者がX線を見ながら脊髄の痛みが走っている神経のところに管を入れ、その神経に直接麻酔を打って一時的に麻痺させる事により、痛みを取り、炎症を抑える効果がある治療方法だそうです。

医者が来てもう一度MRIの画像を見て言ったのは『椎間板が神経を押し過ぎているので、今日は入院していって明日まで様子を見ましょう』との事、入院などした事が無くとても嫌だったのですが、この肉の塊のようになってしまった足のまま帰る事も出来ないので、言われるがまま6人部屋のベッドに行ったのでした。

そこには、みな背骨に問題を抱えた人たちがいました。

看護士からは、お小水はここにお願いしますと置いて行かれたのは、尿瓶でした。

確かにこの状態では、一人でトイレに行く事も出来ないため、なるべく我慢しましたが、夜しかたなく使いました。

次の日になると足の感覚が、だいぶ戻ってきたのですが膝と足首に力が入らないので、歩くことが出来ても、いつ転んでもおかしく無い状態までしか戻っていません。

医者から飛び出た椎間板の温存治療または手術の選択を迫られました。私は、既に会社を1週間休んでいたため一度家に帰って考える事にしました。

考えるといっても、手術をするか、しないか、なのです。怖さを取ってしまえばした方がいいのですが、ここで、私は怖さを乗り越える理由を作るために、温存療法を選択した場合の事を考えてみました。

まず、このままでは車のクラッチを踏む事が出来ません、多分A35は手放す事になります。

良く思い出してみると、裕子のお腹に亮を授かった時、クラッチの感覚がうまく掴めずに何回も調整しなおした事を思い出しました、多分これは予兆だったのでしょう。

また、いつこの激痛が来るかと怖がって生活しなければなりません。会社にも、温存では、治ったと言えない。

やはり私には温存療法でいつか治るのを待つことは出来ないと思いました。



すぐに病院に行き手術の予約を取りました。医者からMRIの画像を見てもう一度、色々な説明を受けましたが、この時どのように脊髄をよけて椎間板を削るか等は裕子に聞いて貰い、私は聞きませんでした。

そして、手術の前日に入院し検査をしたのですが、そこで言われたのが、手術には酸素マスクなどをテープで顔に止めるそうなのですが、その時に髭があるとテープが外れる可能性があるのでこの後すぐに剃って下さいと説明されたのでした。私は10年ぐらい前から髭をのばしていて、別に拘りがあった訳では無いのですが、私は『絶対に剃らないと駄目ですか?』と聞いたところ、看護士が『ちょっとお待ちください』と言い、言って見るものだな・・・・これはなにかいい方法があるのだなと思って待っていたところ、偉そうな看護士(多分婦長)さんが来ていきなり『こちらにも責任があって、命に関わる事なので』と言われました。

わざわざ婦長さんを呼んで来なくても、そのまま言ってくれれば髭くらい剃ったのにと思いながら、洗面所に案内されて剃ったのでした。

鏡に映った私の顔は久しぶりに見る顔でしたが、何か間が抜けているため入院中にまたのばそうとおもいました。

その後、この前の病室に案内されて、寝る前に飲んでくださいと渡されたのは睡眠薬でした。

夕食も食べてはいけなかったので、すぐに睡眠薬を飲んで寝ました。

手術日当日は、睡眠薬のおかげでぐっすり眠る事が出来ましたが、寝るのが早かったため、暗いうちから目が覚めてしまい、とうとうこの日が来たと思ったとたんに緊張のため“ドキドキ”が始まりました。

前日の夜から食事もしていなかったのですが、緊張のためそんな事も忘れていると、看護士が点滴の針を刺しに来ました。既に手術着には着替えていたのですが、前後ろが反対でした。

点滴の針が刺し終わるころに裕子と子供達が来ました。私は裕子に結婚指輪と腕時計を渡して笑おうと思ったのですが、緊張のため笑うことが出来ませんでした。その後、肩に注射を打たれてから意識が薄れてきて、記憶の最後は裕子と亮、岳に手を振って手術室に入ったところまでで、次の記憶はもう手術後でした。意識がはっきりとしてくると咳と共に背中に激痛が走りました、そして両手に点滴、口には酸素マスク、体中が干渉材のような物で固定されています。足は膝から下が一段高いところに置かれていて包帯が巻かれていました。

時計を見ると手術開始から5時間経っていました。

意識が朦朧としていたのですが、喉が痛く息苦しく、咳をすると背中に激痛が走りました。

時間も遅かったので、裕子たちは帰って行ったのでしたが、その夜は一睡も出来ず痛さに耐えました。朝日が登って部屋が明るくなってくると、自然と涙があふれ出ました、それも止め処なくいつまでも流れました。

看護士が『おはようございます』とカーテンを開けて、私のベッドの下を確認しているので、聞いてみると、私の体にはあと他に二本、合計5本の管が繋がっていました。

手術後の始めての回診で医者から説明を受けて、大きな椎間板を取るために脊髄を大きく避けたために痺れが残るが日に日に良くなるとの事でした。

そしてこの干渉材に固定された状態が10日間続き、上半身を起こせるようになって5日間、合計で15日間ベッドの上に居ました。そしてやっとベッドから降りる事を許され、最初に足を降ろした感覚が変なのと、起き上がった時に貧血を起こしてしまい、歩行機を使用して歩くことでベッドから降りることを許されました。

そしてここで痺れが完全に取れるまでには、手術後3年かかると言われました。

私はその言葉を軽く受け流し、それからは毎日リハビリを続け、2ヶ月間の入院生活を終えたのでした。この時私はもう普通に会社に行けると思っていました。

現実は厳しく回復したように思えたのは病院の中での生活だけで、やはり普通の生活では、きつく痛さのためにいつの間にか背中は曲がってしまい、杖が無いと、まともに歩くことも出来ませんでした。

これでは、まだ会社にも行く事が出来ないため、休職が長くなり徐々に生活もきつくなっていました。

そして私はここで大きな決断をしなければならなくなりしました、それはA35とMk-1のことでした。私は今回クラッチを踏むためも一つの理由にして手術を受けたのでしたが、それも生活できてのことで、現状は通院費もきつくなっていて、いつクラッチを踏めるようになるかわからない状態で、生活する上でほとんど使えない趣味の車を2台も所有している余裕はもう無く、生活するために役に立つ車が必要になり、MK-1だけでも残そうと考えたのでしたが、裕子の方からどうせなら両方と言う事で、断腸の思いでしたがA35とMk-1を手放すことにしたのでした。

買手はすぐに見つかり、2台ともこちらのいい値で引き取られて行きました。引き取られていく時は涙があふれて最後まで見送る事が出来ませんでした、そして2台を売ったお金で、オートマチックの軽ワゴン車を購入して、家族での買い物や私のリハビリとプールに通って早く社会復帰を目指したのでしたが、胸にポッカリ穴が開いたような感じはいつまでも続きました。



手術後1年が経ち左足の痺れはまだありましたが、何とか普通に歩けるようになったので、産業医の診察を受けて出勤に問題無いとの診断をもらい、会社に復帰する事になりました。

最初は会社への行き帰りだけで必死でした、ただそれも1週間2週間と経って1ヶ月が過ぎると大夫慣れてきて杖はついていましたが、何とか今まで通りの仕事が出来るようになっていったのでした。

ただ、あの時開いた胸の穴を塞ぐことは出来ませんでした。会社への復帰から半年が経ち、家族との暮しにも大夫余裕も出てきて、ほぼ元通りの生活になりつつありました。そしていつも通り会社に行く為の乗り換えの駅で、階段から滑り落ちました。すぐに立ち上がることが出来たのですが、激痛が右手首と左足首に走り、痺れています。

このまま会社に行くことは出来ないため、すぐに裕子に連絡を取り、そのままかかりつけの整形外科に向かいました。医者の診断は、右手首と左足首が骨折しているとのことで、全治2ヶ月でした、すぐに会社に連絡をして休職の手続きをするようにと言われて再度休職となりました。

この時私の足はまだ感覚が元通りにはなっていなかったのでしたが、治ったと油断していました。

一週間に一度の通院をして、1ヵ月後にギブスを外すことが出来たのでしたが、リハビリに約1ヶ月を費やしている頃から私の心の中に何かが住みつき、夜全く眠る事が出来なくなり、全ての事に悩み、自分の存在が嫌になってきたのでした。常に消えてしまったら楽になれるのでは無いかとか考えるようになり、川沿いのビルを見上げては、『ここから飛び降りれば、後片付けが楽だろうな』などと考えるようになっていました。



その後、また会社に行き出したのですが、なぜかいつもの電車に乗るとき息苦しいのです、乗っても息苦しく各駅停車に変えたり、気を紛らわそうと音楽を聞いたり、本を読んだりしてごまかしていました、これが会社でも会議や人が集まるところが息苦しく、強いメンソールの飴などでごまかしていました。

そして、いつの間にか毎日毎日定年まで、まだ何年あると思いながら、命をかんなで削り取っているような感覚で過ごしていたある日、その日はいつもどおり起きて、支度をしたところまで覚えているのですが、その後、9時過ぎまでの記憶が無いのです。裕子に聞くと起こしても返事はするのですが、起き上がらなかったそうです。その日は打合せの予定があり、打合せにはもう間に合う時間ではなかったので、上司に休暇の連絡し症状を言うと、すぐに産業医に相談した方が良いと言われました。

次の日、産業医との面談を行い、すぐに神経内科に行ってくださいと、医者を紹介されて、その場で予約を取って行ったのでした。私も病院に行けば自分の中に居る物が何なのか、わかるだろうし手術で取る事が出来るならば取ってしまいたいと思い、病院に行く事にしました。そして、神経内科に行き私に付けられた病名は、“鬱病”でした、心の中で“ドン”と何かが落ちたような音がしました。私はどれだけ苦しまないと許してくれないのだろうと、心の中で謝りつづけたのでした。



ただ、前向きに考えようとして、どんな形にしろ、病名がつけば不治の病で無い限り治ると信じて、医者から言われた事を守り、常に処方された薬を飲んで治そうとしました。

その時自分としては、薬による影響はあまり無く会社で少し眠くなる程度で、鬱の症状は軽くなっているように感じていました。



ところが、1ヶ月も経たないうちに、また電車に乗る時に息苦しくなったのです、医者から突然恐怖などに襲われた時用に、頓服薬を処方してもらっていたのですが、その時は1錠飲んで30分ぐらいしても電車に乗る事が出来ず、もう1錠飲んで30分と思っていたところから、その後の記憶が断片的にしかありません。気がついた時は警察署で、私は行った事も無いお店の中で、商品をたくさん手に持ったまま倒れていたそうです、頓服薬を見ると合計4錠飲んでいました。

警察署で事情を話し、通報してくれたお店にお礼を言ってから家に帰りました。そして、その日にあった事を裕子に話すと、裕子から最近の私は別人のようで他人と暮らしているようだったと言うことを聞きました。自分では、そんなに変わった感じはしていなかったのですが、裕子から薬をやめて欲しいと言われたのでした。

ここまで、医者を信用して治るつもりで飲んでいた薬を止めてしまったら、またあの苦しい日々が戻って来るのではないかと悩みましたが、自分の意識の無い中で人に迷惑をかけ、自分が意識していなのに私でなくなっているのを聞き、少しの間薬を飲むのをやめて医者にも行くことをやめることにしました。



するとたった1日でこんなに変わるのかと思うほど次の日からは、泥沼の中で呼吸だけをしているような状態でだるく、頭の中にドロドロした物が動いているような感じで起きることも出来ず、外部からの音や光が痛いぐらいに敏感になり、常に動悸が聞こえていて、とても会社に行くことの出来る状態ではありませんでした。

そのような状態が何日か続き、ある夜突然今まで描いた事も無かった絵を描き出さずには居られなくなり、毎日毎日頭の中に出てくる絵を描き続けました。とにかく生きているという感覚が全く無く、常に“死にたい”と言う塊が胸にありました。

そして、今悩んでもしょうが無いことや結論が出ない事を常に悩み、会社の事など考える余裕も無く全て“死”に結びつけて、早く楽になりたいと思っていました。



そんな状態が2週間ぐらい続き、少しずつ何かが変わったような気がしていました。1ヶ月経つころには苦しさが薄れてきたような感覚も出てきました。ただ、何もすることが出来ず、ここから抜け出す方法は無いのかを考え始めました。この時、妻も子供もいて、自分には責任があることが負担になっていました。でも、この負担が今生きている理由だとも感じはじめていました。



そんな時、私の心の奥深くから小さな音で、あるメロディーが流れ始めました。よく聞いているとサザンオールスターズのTUNAMIでした、なぜこの曲なのか全くわかりませんが小さな音で流れていました。

すぐにCDを探し出しプレイヤーにかけてイヤホンから『風に戸惑う弱気な僕、通りすがるあの日の影、本当は見た目以上涙もろい過去がある』と流れた時、目から熱い物が止めどなく混みあげてきて、私は両手を床に付いて泣いていました。何度かけても同じように泣いていました。

ただ、泣くたびに、がんじがらめになった心が軽くなっていく感覚がありました。そして何度も何度も聴き泣きました。

そうしているうちに自分の居場所はここで、何もしなければ、ここに止まっているだけで、あと落ちようも無く、あと下は“死”だけで、何もしなければ死ぬことも無いと考えるようになりました。

すると、最低の部分の考えは落ち着き、次に何かをしてみようかなという気持ちが、心の縛りを少しずつ軽くしていきました。ただ考えすぎると無限ループになり悩み出すため、自分に時間はたくさんあると言い聞かせて、焦らないように出来る事を何かやってみようと思い始めていました。そして私は、ある日突然歩き始めました、それも今やろうと思って始めました。準備をしたりすると変なところで悩み出すからです。

最初は背中が痛くてほとんどまともに歩くことが出来ませんでしたが、一生懸命になって歩きました。汗を流していると頭は何も考えず、何も考えない分、心が楽になっていく感覚があったので、毎日やろうと思っていなかったのでしたが、少しずつ歩く距離を延ばして毎日歩きました。そして常に“何も考えない”ととなえていました。



すると、やりたいことが頭に浮かぶようになり、またサーキットを走りたい、あの爽快な気分をまた味わいたいと心から思うようになっていきました。でも、もう今まで居た会社に戻れることは全く考えられませんでした。



そして漠然と自分でプレッシャーにならないように目標を立てて、次の年の5月を再スタートの日と決め、往復2時間の道を歩き、1kmを泳げるようになった頃には、自信はありませんでしたが、心の不安感が薄れていました。

それでも黙々と再スタートの日、腰の手術をして3年のその日に向けて歩き続け、考え着いたのは、なるべく物事は簡単に考えて、不安になっても深く考えず、どうやっても全ての不安を取り除くことは出来ない、問題はぶつかった時に考える、嫌な事をいつまでも考え無い、今自分が出来る事だけすればいい、と決めて、私はお金のためではなく、心のリハビリのために会社に出社することを決意しました。



この時、年収も半分以下、貯金も無かったのですが、裕子に『5月にみんなでサーキットに行きたい』と、これまでの思いを伝えました。すると裕子は私の思いを知っていたかのように、快く『今度は4人でサーキットに行こう、またレースをやろう』と言ってくれたのでした。



私は約1年ぶりに会社に向かっていました、足取りは重く事務所のあるビルへの入館の時、手が振るえ吐き気もしました、でも、それでいいんだ、今はそれでいいんだととなえ続け、事務所に入りました。人の目が気になりましたが、自分の席に座ると、ここまで来られたという達成感が私の中に芽生えました。

ただその日から3日間は会社への行き帰りだけで精一杯で、家に帰るとぐったりでした、でもこれは何回か経験していました。今、出来る事は精一杯やったので、もう悩まない、次のことを考えます。



私はまた会社に復帰しました。



少し経つと会社でのメンタルヘルス調査が行われ、産業医との面談になりました。この時、自分の中で悩むことは無く自分を認めて、産業医には今までの事を全て伝えたところ、やはり、産業医から医者を紹介され、また医者に通って薬を飲むことになったのですが、以前のようにならないことだけを注意し、今度は治そうとはぜずに、うまくつき合って行くことだけを考えました。

これは諦めではなく、生きるための一つのステップとして考えて、下らないことには悩まないように、何があろうと自分自身であることを認めるようにしました。そして、私の生活リズムは、また新しい形で刻み始めたのでした。

今回のことでA35とMk-1を失ってしまいましたが、目標としていたことを1つ残していました、復帰の最後の仕上げです。



会社を休んでいる間に、鏑谷さんからは『たまには来い』と言われていましたが、大事にしていた車を手放してしまった私は、車を見るのが辛くとても行く気にならなかったため、連絡もこちらからは、一度もしませんでした。ただ今回の仕上げにはどうしても鏑谷さんに手伝ってもらう必要がありました。

私は会社に復帰した事を報告に行く事にしました。久しぶりに鏑谷さんの所に行くと、いつも鏑谷さんのスーパーセヴンとイレヴンが置かれている場所に、新しい真っ白なスーパーセヴンが置かれていました。

私はそのセヴンを羨ましげに見ていると、鏑谷さんが出て来ました。

鏑谷『よう久しぶりぃ』

私『ご無沙汰していました』と言い、腰の話し、鬱病の話し、全てを鏑谷さんに話しました。

鏑谷『なんとなく聞いていた』とのことでした。

そして私は相談したかったことを鏑谷さんに言ったのでした

私『もう少ししたら、またレースをやりたいと思っています』

鏑谷『車は何でやる?』

リハビリを始める時に、次ぎにレースをやるときの車は決めていました。

私『スーパーセヴンでやろうと思っています』

鏑谷『そうか・・・・セヴンは高いぞ』

私はわかっていました。

私『またレストアからやるので古くて安い中古車は、無いですか?』

鏑谷『無くは無いが古いセヴンのフレームは蝋付だから、折れるぞ、レースをやるなら中古でもしっかりしたのを買わないとなぁ・・・・・』と言い、

鏑谷さんは奥から白いセヴンのサイドスクリーンを持ってきたのでした。そして鏑谷さんの行く方に付いていくと、あの入り口に置いてあったセヴンに取り付けようとしています。

私は何をしているのかわからず、鏑谷さんのところへ行き覗いて見ていると、そのサイドスクリーンにはM.SEKIKAWA RH+OとY.SEKIKAWA RH+Aと書かれていました。

一体どうなっているのかわからずに、声も出すことができません、胸が痛くなってきました。

サイドスクリーンを付け終わると、鏑谷さんは書類が入った袋を私にほうり投げました。

鏑谷さんが『取りに来るのを3ヶ月待ったぞ、手付けは貰っているから、乗って帰れ、お前は本当にいい嫁さんをもらったな』と言われて、涙があふれてきました、私は立って居られず床に両手を付いて泣きました、涙が止まりません、人前で泣いたのはどれくらいぶりでしょう。

鏑谷さんも私に背を向けて泣いているようでした。



詳しく話しを聞くと、半年前に裕子が鏑谷さんの所に来て、私の状態を話し、今レースに出ることを目標に必死にリハビリをやっていて、絶対レースに出られるようになるので、それまでにスーパーセヴンを探しておいて欲しいという事だったそうです。



鏑谷さんは裕子の話しを聞き、すぐにレース仲間に聞きまわってくれたそうで、ちょうど新車に乗り換える人がサーキットに来ると言う情報を聞き、わざわざその車を見に行ってくれたそうです。そして程度も良かったことから、その場で購入を決めて自分のガレージで不具合箇所を治して、3ヶ月前に出来上がったそうです。私はまた、泣きそうになりました。

ただ、不思議なのは、私はスーパーセヴンの事を誰にも言った覚えが無いのです。鏑谷さんに裕子は何で私がセヴンに乗りたいと思っている事を知っていたのかを聞いたところ、『毎日毎日寝言で“セヴン、セヴン、セヴン”言っていれば、ウルトラセブンかスーパーセヴンしか無いだろ』と教えてくれました。

そして鏑谷さんが『早く乗ってみろ、かなりいい感じだぞ』と言ってくれたので、私は、セヴンに乗るためにジャングルジムのようなロールケージに登り、シートに収まったのですが、これはスポーツカーではありません、レーサーです。

視線の高さは大人の膝あたりです。このまま公道を走る事が違法のような気がします。それに今履いている靴では、どのペダルを踏んでいるのか全くわかりません。とりあえずエンジンを掛けようと思ったのですが、キーがありません、赤いキルスイッチをオンにしてスターターボタンを押すと軽いクランキングの後に共にエンジンが、目覚めました。軽くアクセルを煽ると軽くふけ上がり、フライホイールが相当軽い物が付いているのがわかりました。まるでバイクのエンジンのようなレスポンスでタコメータが動きます。するとメータ内のインジケータに“N”が表示されていたのです、これはシーケンシャルシフトになっていると言う意味です。早速、靴を脱いで靴下でクラッチを踏み込んでシフトレバーを押すとインジケータが“1”になりました。そしてクラッチをそっとミートして鏑谷さんのガレージを出て、アクセルを踏み込むと、とてつもない加速です。

鏑谷さんは辺りを1周して戻った私を見て、笑顔で『早くうちに帰れ』と言ってくれました。

私はお礼を言ってから走り出しました、なんて気持ちがいいのでしょう、こんな気持ちはどれぐらいぶりだろう、私は加速の風圧だけでない涙があふれてきました。



家に帰ると、既に裕子と亮と岳が、ガレージの前で待っていてくれました。私はセヴンをガレージの中に頭から入れて、すぐに飛び降り、3人を抱きしめて、『ありがとう』言い声を出して泣きました、裕子も泣いています、亮はセヴンが気になってしょうがないようです、岳は何だかわからず一緒に泣いています。



その日は家族4人であのカレー屋に行きました。



カレー屋から帰って私は、ガレージの椅子に座り、裕子の入れてくれたコーヒーを飲みながら、セヴンを眺めて想像をしていました。辛かったことと、これからサーキットに行ってパドックで家族4人が微笑みながらセヴンの周りをあわただしくしているところを・・・・・・。

またやり直します、何度でもやり直します、車は変わってしまいましたが、何度もここからスタートしなおしてきました、諦めなければやり直せるのです。これからもそれだけは忘れないで、生きて行こうと決めました。





レーサー

なんて美しい車なのでしょう。走るため以外の物は何も無く、屋根さえもありません。直線と曲線が重なり合い無駄の無い絶妙な造形を作り出しています・・・・・・・。

『何ボーっとしてるんだよ』亮に肩をたたかれました、そうあれから3ヶ月後、私は念願のサーキットにスポーツ走行に来ていたのでした。

今ポルシェの甲高いエキゾーストがストレートを駆け抜けて行きました。セヴンは次のクラスです、準備はできつつあり、亮と岳が走り回っていました。放送がかかりパドック前に次の走行車両が並び出しました、うちのセヴンも並ぶために家族4人で押しました、小学校6年の亮と1年の岳が押している姿が微笑ましいのでしょう。周りの人たちがみんな笑顔です。

セヴンを列に並べて、今回ダブルエントリーの裕子もレーシングスーツを着ていますが、先に私が乗り込みました。

ポルシェが続々と戻ってきて、まもなくセヴンのクラスです、セヴンのクラスは、フォーミュラクラスと言い往年のレーサーやF3クラスのフォミュラーカーが一緒に走ります。

ポルシェの走行が終わり、サーキット内が静寂に包まれました。しばらくすると私達が走るクラスのエンジンスタートのサインが出て、静寂がまたエキゾーストに包まれ、私のセヴンもエンジンをスタートさせて少しアクセルを煽ったところで、アイドリング状態にしました。

目標タイムは55秒台、いよいよスタートします、亮、岳、裕子に手を振り走り出しました。

ピット前を通り過ぎて、コースイン、1速を引っ張ったままエンジンブレーキを掛けて、次にブレーキを踏み込み、ステアリングを左右に切り返してタイヤを暖めます、ゆっくりと1周して、最終コーナーを立ち上がるところからアクセルを思いっきり踏み込み、私は家族に指で合図を送り4速全開からシフトダウンとブレーキングをして1コーナに突っ込みました。

この感覚、A35とMK-1とは違いますが、また蘇ってきました。最高に気持ちが良く、体が覚えているようで、五感が全て路面に反応して手足を動かしています。

コーナー毎にブレーキング、シフトダウン、ステアリング、アクセルオンを繰り返し、4速で最終コーナーを立ち上がってきました、ストレートで6速まで入れてスピードメータを見ると210kmそこから1コーナに入るためにブレーキをかけながら2速まで落とすと、ハーネスが肩に食い込んで目が飛び出そうです。P-LAPを見ると57秒台まだまだ縮められます、もしかするとあと5・6秒は縮められそうな気がします。

ただ、体力的にもう限界です、もう1周してパドックに戻る事にしました。

私の体力が落ちていることもあるのですが、それ以上に何もかもA35の数倍上の領域です。再度タイムを見ると57秒9でした。まだ、私自身がA35出したタイムをコンマ2越える事が出来ませんでした。

今度は裕子の走る番です、裕子の体力的が持てば50秒台が狙えるはず、私はパドックに戻り裕子と交代する準備をしていると、子供達は言われた通り自分の仕事をやっていました。亮がタイヤの温度を測り、空気圧を抜いてメモしています、岳はセヴンのスクリーンを一生懸命きれいに拭き終わると、ノーズの中のゴミを取っています、それが終わると二人でセヴンの下をのぞきこんで、何か漏れていないかを確認していました。裕子がセヴンに乗り込みハーネスをきつく締める頃には、私と亮と岳はセヴンの横に立ち、裕子がスターターボタンを押してエンジンをスタートさせると3人で手を振り、裕子は私達に合図を送って走り出しました。パドック前を走り抜けて、いい音を発てて1コーナーに消えて行きました、さぁどんな感想を言ってくるのか楽しみです。

アウトラップが終わり最終コーナーを全開で走り抜けてきました、ただこちらを見ずに真っ直ぐ前を向き真剣な眼差しでした。裕子は5周走り、戻ってきました。タイム的には私と同じ、A35で出したタイムを越える事が出来ませんでした。裕子の第一声は『この車疲れる』でした、確かに私も疲れました、正直A35の方が乗っていて楽しかったような気もします。でもここで言える事は二人とも、完全にセヴンに振り回されています。これは、車重はほぼ変わらない、むしろ少し軽いぐらいで、馬力は100馬力以上上がっていて、ブレーキ・アクセル共レスポンスが鋭くシフトにも気を使います、タイヤも大きくて太くなっているためステアリングが重い上に、ここまで違うかと言うほど走る姿勢が違っているために腕だけで、重いステアリングを回さなければいけなく腕が特に疲れます、わかっていたことだったのですが、サーキットを走る事で思い知らされました。

ただ、諦めることは何時でも出来るので、今はどうやってこの問題を1つづつ克服していくことを考えることが必要でした。問題の克服にはまずデータの取得で、今回のデータと乗って見た感想を鏑谷さんに相談するために違った走りをして見る事にしました。ひとつづつ確認するために1周目はアクセル、2周目はブレーキ、3周目はクラッチを確認する事にしました。ハンドリングはキャンバーとトーでどうにでもなります。1周目どの回転域から加速出来るのかを確かめながら走りました。すると5速4000回転から加速できます。5000回転からならば1万1千回転まで息苦しくなるくらい一気に加速します。

次にブレーキだけで約150kmから何処まで踏み込んで、タイヤがロックしないのかを確かめてみました。

これが、恐ろしいほど重く乱暴に踏み込んでもゆっくりとそれも2cmぐらいしか踏み込めません。それもコーナリング中に踏んでもロックせずに凄い力でステアリングが戻ろうとします。これは、使い方によっては戦力になります。

次にクラッチですが、これが一番の問題です、全くアクセルレスポンスと合っていないように感じていました。フライホイールが凄く軽いせいなのか、アクセルオフ状態でクラッチを踏むと回転が一気にアイドリング近くまですぐに落ちてしまいます。このため、すばやくシフトするかヒールアンドトゥを頻繁に使う必要がありました。

クラッチのテストはどのくらい踏めばギアチェンジ出来るかを試す事にしました。まずはシフトダウンのために、ギアに手を乗せたまま、クラッチを踏んでどこでギアがシフトダウンするのかを確かめようとしたところ・・・・クラッチを踏まずにシフトレバーが前に倒れました、シフトダウンしてしまったのです。私は何が起きたのかわからず、今度はストレートを走って1コーナーに入るところでやってみました。するとブレーキを踏みながらクラッチを踏まずにシフトダウンが出来るのです。

私はA35に乗っている時にギアが引っかかりシフトダウンしないことがあったために2回クラッチを踏んでいたこともあったので、ビックリでした。

次ぎはシフトアップです、まさかと思いアクセルを踏んだままギアに手をかけてもやはりギアは変わりませんでした、ところがアクセルをちょっと戻すだけでギアが変わるのです。どうゆう事でしょう、私と裕子は無駄なクラッチワークをしていたのでしょうか。



私は裕子たちをビックリさせてやろうと思い、突然パドック前でタイムアタックする合図を送り、そのまま全開走行に入っていきました。1コーナーのギリギリのところでブレーキを踏みながらクラッチは踏まずに2速までシフトダウンをしてみると、“パンパンパン”っと、簡単にシフトダウンします、姿勢も安定しています。そして空いた左足をブレーキに使う事によりヒールアンドトゥ使わずに右足はアクセルを合わせてヒールアンドトゥのようにタイヤをいたわることもできます。走っているうちに、にやけてきました。最終コーナーを立ち上がってシフトチェンジはアクセルをちょっと合わせるだけでシフトアップし5速1万1千回転まで引っ張って、1コーナーに進入しました。左足でブレーキを踏みながらリアタイヤがロックしないようにアクセルを右足であおりながらギアを落とします、立ち上がりは全くと言っていいほど、スムーズです。

そして各コーナーをクラッチは使わずに走り、最終コーナーは3速全開1万回転を使い立ち上がりましたそしてピット前をぬけてゴールラインを越えるとタイムは51秒4!!体力もそれほど使いません。私は笑顔でピットに戻ると裕子がストップウォッチを握ったまま立っていました、私がセヴンを止めるとすぐにP-LAPを確認しタイムが間違いでは無い事を知り、『何をしたの?どうしたの?』とヘルメット越に頭を叩いてきました。私は笑いながら『まだまだ縮められるよ』と言ったところ、裕子は『何をしたの教えてぇ~』と大声を上げたので、子供達が自分の仕事をやめてきょとんとしてこっちを見ていました。

私は裕子に『ここにキスしてくれたら教えてあげる』と頬を指差して言うと、裕子は人目を憚らずにピット前で本当にキスをしてきたのでした。子供達は両手で顔をかくして指の間から見ていました。



私は約束どおりに裕子に秘密を教えました。『シフトのアップダウンはクラッチを使わずにアクセルを合わすだけで出来るから、やってごらん』裕子が『うそぉ~本当に』と言いすぐにコースに跳び出して行きました。するとアウトラップだけでわかったようで、ピット前を笑顔で走りぬけて行きました、次の周は、まだ左足ブレーキを教えていないのに52秒3、何処まで上げるのでしょう。裕子は6周も走って帰って来ました、ベストタイムは51秒2、そして私も後で戦力になると思っていた事を言ってきたのでした。『この車アクセルのオンオフでハンドルが軽くなるから、それを利用すると、ハンドルが重く無い』と、私も考えていたアンダーステアとオバーステアを使ったんだと思います。

上級テクニックです。そして私ももう1つの秘密“左足ブレーキ”を言うと既に使っていたのでした、それも荷重移動でステアリングを操作するために“左足ブレーキ”を使っていたのでした。完全に上級テクニックを使いこなしています。それもまだ探りながら走っていたのでそんなに攻めていないそうです。

この車の隠し玉もそうなのですが、裕子も色々な引き出しを持っていて開けるきっかけを作ってやるとすごい事になります。この日のスポーツ走行は終わりの時間になってしまいましたが、また楽しみがふえました。

このまま、この車で裕子をスプリントレースに出したら面白い事になるのでは?と、考えるとゾクゾクしてきました。

子供達も楽しかったようで、自分達もやりたがっていました。近々カートコースにでも連れていって、裕子のDNAを引き継いでいるか調べようと思ったのでした。



新しい目標

家に帰ってから早速鏑谷さんの所に報告しに行くと、今までの定位置にスーパーセヴンとイレヴンがいました。スポーツ走行の時にセヴンが私達の考える以上の高スペックで、最初一番いい所を使わずにタイムを上げることが出来なかった事と、裕子の話をすると鏑谷さんは既に分かっていて、当然のようにスプリントに出そうといってきました。とても嬉しかったのですが、実は私が出たかったので気持ちとしては複雑でした。

ところが、もともと鏑谷さんはスプリントレースをやっていて、それも同じカテゴリのイレヴンとセヴンを2台持っていたのでした。どちらも個性の強い車なので、持っているのは楽しいのでしょうが、レースに出られるのはどちらか1台だったので、たまに他の人に貸したりはしていたのですが、今回、私の気持ちを察してだと思うのですが、鏑谷さんから『お前は俺のセヴンに乗って1シーズン走ってみろ』と言ってくれたのでした。

初めて見た時に今まで感じたことの無い感覚を私に残したセヴンに私が乗る事になったのです。鏑谷さんが快くいってくれた事なので、有難く乗る事にしたのですが、万が一クラッシュした時お金が無い事言うと、『その時考えよう』と言ってくれました。

これにより、TeamKaburayaとして1シーズン3台で走る事になったのでした。



すぐに裕子たちを呼んで、TeamKaburaya発足会を開く事にしました、ただのバーベキューですが。

裕子たちが来てすぐに発足会を始めたのですが、ここで裕子が、チーム名がスマートすぎると言い出したのでした。そこで裕子に任せる事にしたのですが、“鏑谷組”まぁ日本的と言うか、一歩間違えると・・893・・です。あと裕子が提案したのは車の呼び名でした。同じ車が走る中、個性的な方がいいと言う理由でした。

たしかに何々スペシャルとかが多く、他は、飲んだくれ号とかセンスの無い名前が多いのは確かで、そしてつけた名前が、裕子が乗るセヴンが“白無垢”“シロムク”これは色からです。私が乗るセヴンが“蓮”“ハス” これはロータスからです。そして鏑谷さんが乗るイレヴンは“十一”そのままですが、読みが“トイチ”悪徳金融のようで笑えましたが、これで誰も文句が無かったので、鏑谷組で1シーズン走ります。最初のリザルトが来るのが楽しみになりました。



始めてのレース?

スプリントレースの申し込みをして、レース当日の1ヶ月前にリザルトが送られて来ました。

鏑谷組の白無垢、蓮、十一で、とりあえず笑えました。ただ、わかってはいたのですが、これを見てすぐに体が熱くなったのは、言うまでもありません。

今回初めて3人が同じカテゴリで一緒に走ることになり、ピット作業はスプリントなので特に無いのですが、亮と岳がやります。面白そうなのと緊張で変な汗がでてきました。今週末の練習走行は楽しみになってきました、当日は自然と力が入るはずです。



練習走行

いよいよ始まります、私達家族4人は軽ワゴンでサーキットに着きました。

鏑谷さんが来るのを待っていると、この日のために用意してくれた4台積みローダーが白無垢、蓮、十一を載せて仰々しく、やってきました、ちょっと見ワークスです。と言うことは、私達もちょっと見ワークスレーサー?違いますね、ワークスレーサはメカニックと軽ワゴンに4人乗ってきませんね。

車を下ろすのにも、人が集まりだして、やはり勘違いしそうでしたが、そんなことを考えている間もなく、準備をしていると緊張が高まってきました。ただ、裕子の走り方を見ながら走るのは、何年ぶりでしょうか、とても楽しみでした。

早速、レーシングスーツに着替えている時に、私は蓮号に乗るのが始めてだったので出走順番は、十一号、白無垢号、蓮号の順で走るようお願いをしました。他の車が、パドック裏に車を並べ出したので、鏑谷組の3台も並べて時間になるのを待ちました。時間が近づいてきたので、各自車に乗り込みハーネスを締めこむと久しぶり身が引き締まる感じです。

エンジンスタートの指示が出て静かだったサーキットが一瞬のうちにエキゾーストに包まれました、いよいよ練習走行開始です。

さて私は蓮号でどれくらいのタイムが出せるのでしょうか、鏑谷さんに聞いておいたのは、白無垢号とは違いシフトはHパターンでシフトアップダウンには、普通うにクラッチが必要なことぐらいでした。他はA35やMK-1と馬力が100馬力違います。

私の前にいる裕子が走り出したので、私もそれに続きアクセルを煽りながら走り出しました。

1コーナーを抜けて本格的にアクセルを踏むと簡単にホイールが空回りします、やはりジャジャ馬です。でも白無垢よりは、大夫マシです。最終コーナーを3速で立ち上がり、白無垢と十一号を直線で抜いてタイムアタックに入りました。

すると、どういう事しょうとても乗りやすいのです、排気量の関係もあるのでしょうけれど、低速トルクがあって、ほとんど2速と3速で、裏ストレートで4速、メインストレートでトップを使うぐらいです。初めての車でタイムはクリアラップの時が1度も無かったのですが、52秒7で、私としては大満足でした。その後の走行は、大夫車になれたところで、終了となりました。

最終的に3人のベストタイムは私が52秒5、裕子が52秒3、そして鏑谷さんが余裕の51秒9でした。

楽しく充実した走行会でした。早速鏑谷さんの所に戻って反省会のバーベキューが始まりました。私は蓮号の乗りやすさからあと1秒は縮められることを話し、裕子もあと1・2秒は縮められると言っています。そうなると本戦では、この3台だけでも面白い戦いになりそうです。

本戦を控えてみんなで打ちあがりました。



本戦

練習走行から1ヶ月が経って、とうとうあの地獄の日々から目標にした日になりました。今あの時の事を思い出そうとすると、辛かったことだけで、何が辛かったのかを思い出せなくなっています。多分神様が創った人間の良いところでは無いでしょうか、嫌な事は少しずつ消えています。そんなことをサーキットに向かう車の中で考えていました。それと、少し自分を客観的に見る事が出来るようになったのかもしれません。これからの事を楽しみにしている自分がいます。

さあ、着きました、子供達は鏑谷さんの積載車に乗って、うちの軽には裕子と2人で来ました。車を降りるといつも変わらない匂いと雰囲気です、練習走行とは当然違った気分で、気分が高まってきました。

受付をしてパドックが決まったところで、積載車から1台1台車を降ろして、自分達のパドック前に車をならべました。荷物もパドック内の定位置に置き、レーシングスーツに着替えて準備が整っていくにつれて、気持ちが引き締まってきました。

次ぎは車の確認です、緊張度が高まってきたので、一旦シートに座り目を閉じました。予選開始まで後30分、イメージトレーニングをしていると、隣の白無垢のシートに裕子が座っています。

私はここで裕子を誘ってパドックの上にあるキャットウォークを歩きました。そして、今までの事、私を必死に支えてくれたことを感謝し、これからもまだ何があるか、わからないけど一緒に居てほしいことを伝えると裕子は、『もちろん、私は平坦な人生より色んなことを味わえる人生を選んだと思っているんだ、辛かった事もあったけど、それを乗り越えた時に本当の幸せを感じられる、だから楽しい』と、私は『ありがとう』の言葉しか出てきませんでした。



まもなく初めてのスプリントレースのスタートです。

このスタートは私にとって何度目になるのでしょうか、でもこの家族と仲間となら何度転んでもでも、強くなってスタートできます。



予選スタート5分前の放送がかかりました、鏑谷さん亮と岳が手を振って待っている車に向かって、私は裕子の手を強く握り走り出しました。



END



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